第28話 すべて、違うひと
翌朝はお互いに違うドアから出て、リビングで顔を合わせた。
なんとなく気恥ずかしくて、顔がまともに見られない。とりあえず昨日入りそびれたシャワーを浴びさせてもらう。
髪を丹念に乾かしたあと、ソバカスが隠れる程度には化粧をする。素顔を見せる仲にまだなっていない。
「朝ご飯、何がお好きですか?」
「なんなら外でもいいですよ。散歩してブランチとか」
「そんな、贅沢です。じゃあ冷蔵庫にあるもので何か作らせてください」
哲朗さんは特に好き嫌いがないように思えた。チルド室にあった塩鮭を焼いて、青菜の味噌汁をつける。
「珠里さんは料理がおすきなんですか?」
「自分で作った方が安上がりですから」
「倹約家なんですね」
「ケチって言ってください。贅沢はすきじゃないんです」
と、そこまで言ってハッとする。哲朗さんの生活はシンプルに見えて贅沢だ。どの調度品も決して安くないものだ。言ってしまってよかったのか、どぎまぎする。
「女性はそれくらいじゃないと。僕の母もわりと質素なひとですよ。うん、美味しい」
彼は味噌汁に口をつけた。
食器を洗ってお茶をいれると、哲朗さんに手招きされる。呼ばれるままにそばに行くと、そっと手をとられた。
「目が覚めたらいなくなっているんじゃないかと」
「いますよ、ここに」
「そうですね、よかった」
胸が痛くなる。
このひとの気持ちに追いつかなくてはいけない。愛されていればそれでいいというのは怠慢で、同じか、またはそれ以上に愛さなくては失礼だ。唇を寄せられて、軽いキスをする。
そう言えば昨日は自分から求めたんだっけ。やっちゃったな、とふと思う。わたしはお酒が入るとふしだらだ。
「休日はいつもどうしていますか? どこかに出かけましょうか?」
「休日は貴重なので彼と」
息を飲む。なにを話そうとしているんだろう?
「彼と? 聞きたいな」
「……部屋でのんびりして。たまに大きな公園に散歩に行ったり、ショッピングにも行きましたが」
ふぅん、と哲朗さんは考え事を始めた。わたしはその横顔を見ている。今日のわたしたちをシュミレーションしているんだろう。答えを待つ。
「じゃあ、できそうなことから。ショッピングに行きましょう。行きたいお店はあります?」
無印良品に、と小さな声で答えた。
彼のマンションからわたしの元職場のあるビルまでは一本道だ。大通り沿いを歩く。晴天の日曜日は人波もそこそこあり、何より外の空気が美味しい。天上にある一室は空気が薄いような気がしていた。
「じゃあ、あのビルに入ってるお店なんですか?」
「はい、今日着ているブラウスもそこで買って」
彼は一歩下がってわたしを見た。
「朝から思ってたんですけど、似合いますよね、そのシャツ。お世辞ではなくて。そのベージュのボトムによく似合う」
「ありがとうございます」
面と向かってそんなことを言われると照れる。確かに今日のブラウスは麻混の七分丈で、お気に入りだった。
「スカートじゃないのも新鮮です。背が高く見えますよ」
口元に笑みを作った。
無印に着くとふたりでそれぞれの服を見たり、種類の多い凝った料理のレトルト、木製の食器なんかを面白がって眺めた。
そのあと別々に分かれて、飽きもせず買わない服を眺める。定番のボーダーTシャツや、気の早い夏物のワンピース。……いつかの、篤志と一緒に買ったワンピースを思い出して手に取った服を戻す。
そうこうしているうちに哲朗さんがうれしそうな顔をしてやって来て、わたしを急かす。
「面白いものがあるんですよ」
彼はわたしを家具コーナーに連れて行った。家具なら必要な分、そろっていると思って、ふたりで回らなかったのに。
それは通称『人をダメにするソファ』だった。マイクロビーズが入った大きなクッションのようなソファは、座る度に体にフィットする形になる。あまりの座り心地の良さについた通称がそれだった。
彼はゆったり座ると、いままで見せたことのないくつろいだ顔をした。
「これ、面白いなぁ。珠里さんも座りません?」
二個置いてあったうちのもうひとつに座るよう言われて、渋々座る。もちろんこれも嫌ってほどすでに試した商品だった。わたしの隣に篤志が座る。見るだけの買い物に疲れてふたりで「生き返るね」とか馬鹿なことを言う。
でも隣に座るひとが違う。不思議だった。
ここへ来て、買いもしないのに座って笑って帰る。その繰り返し。それを思い浮かべる。
「これ、買いましょう。珠里さんの分も」
他のお客さんが試したいという目でちらちら見ているのが気になる。哲朗さんは育ちがいいからか鷹揚としている。
「あの、カバーが。カバー見ませんか?」
「カバーは別売りか。部屋の内装を考えると僕はベージュかな。珠里さんは?」
「わたしも」
待っててくださいね、と彼はレジに向かった。何万もする買い物も彼にとっては一瞬なんだな、と呆然とする。
ソファから立ち上がって、適当に離れた場所からそれを見ていた。
「お待たせ。配送を頼んだので。テレビの前にでも置きましょうか? 殺風景な部屋ですから、遊び心のあるものが在るのもいいですよね」
そうですね、と答えた。
ここへ来て、座って、帰る。そういう生活は終わってしまった。わたしは違う世界の住人になった。
元職場のあるそのビルは気まずいので、昨日行くはずだった蕎麦を食べに行く。一日遅れたけど縁起物です、と彼は笑った。わたしも笑った。
天ざるの天ぷらが食べきれずに困っていると「残していいんですよ」と哲朗さんは軽やかに笑った。そうか、残してしまってもいいのか、そう思うと廃棄されていく天ぷらのことを考えてしまって改めて箸をつける。
「無理しなくても」
「大丈夫です」
テーブルの向こう側から「仕方ないな」と箸を伸ばしてくれるひとはいない。自分以外、食べるひとはいない。
篤志のことばかり考えている。なんでここに来てしまったんだろう。自分から来てしまったんだからきっぱり忘れて、違うひとの女にならなければ。
高いお店の海老天はいやらしいくらい大きくて、噛むと衣が小気味よい音を立てた。
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