第35話 会いたいよ

 先日、病院に行ったのは本当だ。

 その日は朝、起きられなくて早朝勤務だった哲朗さんを見送れなかった。そういうことでうるさく言うひとではないので、布団に丸まっていた。行ってくるよ、と彼は額の髪をかき上げてキスをした。布団の中から逃れていく彼の体温が恋しい。こんな日は隣で一緒に眠ってくれたらいいのに。どうしようもないことを考える。


 しばらくして梅さんが現れて、大袈裟に驚いた。いつかの哲朗さんのようだった。そしてあの時のようにタクシーに乗って、クリニックに向かった。断ったけど梅さんはついて行くの一点張りで、否応なく一緒に行くことになる。


 また予約外受診だったにも関わらず、先生はやさしかった。その前の予約日になにも変わってないふりをして黙っていたことを、懺悔するように言葉にする。

「そうですか。彼とは別れてしまったんですね?」

 叱られるかもしれないと不安になる。

「新しい生活はどうですか?」

「……いままでとは違いすぎてまだ慣れません」

「新しい方はあなたにやさしいひとなんでしょう?」

 あ、と言葉が詰まる。

 哲朗さんはどういうわけかわたしにすごくやさしい。でも、それに慣れることができない。何度考えても、がんばってもわたしはやさしさに値する人間じゃない。

「眠れないというより、一日中、だるいんです。体が思うように動かないし、なにもする気になれなくて」

「あなたもなにか楽しみを見つけられるといいんですが。いまは難しいでしょうね。『楽しい』と思えることがあったら積極的にやってみては? 気分転換が上手にできるように練習しましょう」

 お薬出しておきますね、と言われて診察室を後にした。

 呆然とする。いっそ、叱られたかったのかもしれない。


 帰りのタクシーに乗るまで、梅さんはなにも聞いてこなかった。聞かれることを怯えるわたしの方が疲れてしまって、おずおずと口を開いた。

「わたし、哲朗さんにふさわしくないでしょう?」

「ずっと通っていらっしゃるんですか?」

「一年ちょっとかな」

「お辛かったでしょう。大丈夫、坊ちゃんには内緒にしておきます。梅がついていますからね」

 梅さん、わたしね……。

 帰宅してから一気に言葉があふれ出す。いままでどれだけの言葉を飲み込んできたのか思い知らされる。梅さんは煮出してあった麦茶を冷蔵庫から取り出し、わたしの前にグラスを置いた。


 その間、口を一切挟まずに話を聞いていた梅さんは、わたしの嗚咽で話が止むと唐突に口を開いた。

「坊ちゃんはなにもいままで聞かなかったんですか? つまりお嬢様を責めるわけではなくて、自分の伴侶になるかもしれないひとの身の上話も聞いてあげないなんて。黙っていることも辛かったでしょうに」

「いいの。この話をしたひとは梅さんと前につき合っていた彼だけなの」

 彼女は同情を率直に顔に表した。

「梅にはなにも決める権利はないんですよ。ただ、お嬢様の辛い気持ちを少しでも減らして差し上げたい。毎日の生活の中で小さくてもいいから楽しみを見つけましょう。一緒にやってみましょう」

 不思議なことに、梅さんの提案は先生の提案とまるで同じだった。


 コツコツと待っていた足音が聞こえる。わたしは飼い犬と同じだ。主人の帰りを玄関で座り込んで待つ。

「どうしたの、こんなところで。電気くらいつけたら?」

「もうすぐだと思って待ってたの」

 そう、と言うと彼はわたしの脇に手を入れてわたしを立ち上がらせた。

「お酒でも飲みましたか?」

「弱いの、知ってるじゃないですか。飲みませんよ」

「足に力が入らないようだから。今日は僕がご飯の支度をしますから、珠里は座っていて」

「そういうわけにも」

 彼は上着を脱ぐとソファにそれを放った。そしていつものように冷蔵庫に貼られた付箋に目を通した。

「珠里は料理が得意だから、梅さんもハードル上げてきてるな。これができればうちの母なんか、あなたに文句はつけられませんよ」

 哲朗さんはうれしそうにそう言った。それから、僕にできるかわからないけどやってみましょう、と腕まくりした。


 仕事の山場は過ぎたのか、哲朗さんは帰りが少し早くなった。わたしは彼が帰ってくるだろうと思われる時間に合わせて食事の準備をし、期待に応えるように彼も時間通りに帰宅した。規則的な生活はわたしの心を少し落ち着かせ、例の変わらなくなった『愛してるよ』を見ても心は動かなくなった。

 得るものがあって、失うものがある。それは物事の道理だ。


『もしもし? 今日は早く帰れそうなんだ。なにか買って帰ろうかと思うんだけど、なにがいいかな? ケーキでもなんでもおねだりして』

『なにもいらないから早く帰ってきて、どこにも寄らないで』


 彼は言葉を失ってしまったかのように、電話の向こうから声が聞こえなくなる。終話ボタンをタップして、カウチにスマホを投げると、『ダメになるソファ』に顔を埋めた。

 梅さんはもう帰ったあとのことで、八時くらいには帰ってきてくれるつもりなのかもしれないと考える。窓際に、毎日の楽しみになるようにと梅さんが置いて行ったラベンダーの紫が目に染みる。

 ラベンダーを見た哲朗さんは「不思議な香りがするね」と言って「いつか富良野にラベンダー畑を見に行こう」と言った。わたしは笑った。ふたりでしゃがみこんだ姿勢で、その小さい鉢花からの香りを楽しんだ。


 食事の支度はとうに終わってしまった。あんな電話までかけてきて期待を持たせたくせに、もう日付が変わる。

 することもなく、ソファに沈み込む。抵抗なくソファはわたしの身を受け止める。エプロンのポケットからスマホを取り出して、そんなことをしても、もうなんの意味もないのにラインを開く。ミュートのサインが目につく……。


『会いたいよ』


 何日も変わらなかったメッセージが新しく変わっていた。トーク画面を開いてすべてのメッセージに既読をつけて、わたしも――。

 いまさらできるわけがない。

 どうして「会いたい」なんて口にできるんだろう? 後悔、という言葉が怒涛のように背中から襲いかかってくる。


 混乱する。

 哲朗さんと一緒にいるって決めたんだ。

 もう篤志とは会わないことにしたんだ。

 頭がぐるぐる回る。目を強く瞑る。わからない、わからない、わからない。

 篤志はどう思ってくれてるの? わたしはどうしたいの? わからない――!


 自分でもこんなに大きな声が出るなんて知らなかった。その声は耳をつんざくようで、それでいて耳元を通り過ぎていく。背中を押す『自分』が、もっと吐き出してしまえと強く背をさする。

「珠里! ごめん、こんなに遅くなって……」

 自分の声で哲朗さんの声が聞こえない。あわててそばに来た彼はわたしを強く押さえつけるように抱きしめた。

 彼の向こうにコンビニの袋に入ったハーゲンダッツのパッケージが見える。声を上げ続けるわたしが望むものは、それではなかった。

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