第36話 なにも期待していない

 ぽつり、ぽつりと話さないわけにはいかなくなって育ちのこと、病気のこと、クリニックのことを話した。

 まるで尋問される囚人のような気持ちで、まったくの他人であれば言わずに済むことを告白する。


「良くないことなのはわかっているんですが、梅さんに聞いていたんです。僕、怒られました。毎日、何を見ているんだって。今日は少しでも早く帰ってあなたを喜ばせたかった」

「いいんです、気をつかわないでください」

 責められて断罪されたかった。

 他の男のきまぐれな一言に心を揺さぶられる女なんて、捨てられて当然だ。

「病院に行きましょうね。明日は僕が一緒に行きます。大丈夫ですよ」


 翌日、彼は本当に仕事を休んで一緒にクリニックに行ってくれた。彼は先生と話したいと申し出て、ひとりで診察室に入って行った。そして難しい顔をして戻ってきた。

 わたしの隣に腰を下ろす。

 珍しく苛立っているのがわかって、いつも読んでいる電子書籍から目を離した。


「岩崎さん、彼には何も話さなかったんですが、話した方が良かったでしょうか? まだ婚約していないと聞いたので」

 その先生の言葉にほっとする。物事が急転するのに慣れていない。流れるように日々は過ぎてほしい。

「一応、病名とその説明は簡単にしましたけど、一般知識程度です。それはあなたから聞いたと彼が言っていたので。個人的なことはなにも話していません。守秘義務というやつです。話した方がよかったでしょうか?」

「いいえ」

 いいえ、わたしの心の内を知られたくないんです。

「最近、具合が良くなりませんね。環境が変わったことのストレスも大きいのかもしれませんけど、お薬を変えて試していきましょうか。あなたが望むあなたになれるように私も工夫しましょう」

 それ以上、深いことはなにも聞かれずに、新しく飲むことになった薬の説明だけ聞いて診察室を出た。


 タクシーのドアが閉まると哲朗さんはおもむろに口を開いた。

「面倒ですね、医者というものは」

「……すみません」

「いや、そういうわけではなくて。あなたに寄り添いたいのに、社会的な約束がなければ本当の意味で守ってあげることができないなんて。……三ヶ月なんて約束をしなければよかったな。変に紳士ぶらないであなたを早く僕のものにしてしまえば良かった」

「ごめんなさい」

 アイロンのかかったハンカチがわたしの目を拭う。そのアイロンも梅さんがかけたもので、わたしのしたことは洗濯機を回したことだけだった。


「申し訳ないんだけど、帰ったら社に顔を出さなくちゃいけなくなって。梅さんに頼みましょうか? ひとりは難しくないですか?」

 大丈夫です、と答えた。

 このひとはわたしと結婚すると言いながら、もう一方の顔で会社と結婚するんだろう。きっとそういうひとが社会にはあふれていて、わたしが社会不適合者なんだ。


 火曜日になると梅さんは翌日も来ると言い張った。わたしは休日にわざわざ来るなんてバカげたことだよ、と笑って見せた。

 じゃあひとりでなにをするかというと、今朝も頭がぼんやりしている。

「行ってきます」が毎朝の「おはよう」の代わりになった。

 食欲がないので、こういう時のために梅さんが用意しておいてくれたバナナを食べる。お行儀悪くソファに乗って、窓の外に目をやる。わたし以外のたくさんのひとの暮らしが今日も始まっている。


 外は陰鬱な雨模様だった。

 クローゼットに向かうと、あの日買った墨色のワンピースを出した。着てみるとノースリーブは寒くて、UNIQLOで買った薄手の夏物パーカーを上に着た。

 スマホのメッセージにはまだ『会いたいよ』と書かれていた。

 バカげているのは承知の上で、晴雨兼用の日傘をあの日のように持ち出した。エレベーターが下りる時間がもどかしい。エントランスに出ると街は溺れるようだった。


 目の前の駅から『当駅始発』の電車に乗る。心臓の鼓動が大きく胸を打つ。別になんてこともない、会おうなんて思ってない。ただちょっと近くに寄っただけ。

 電車は事務的にわたしを降ろして、駅前にあるドトールの窓際の席に座る。学生たちは色とりどりの傘を持って魚の群れのように校門に急ぐ。


 なにも期待していない。彼の通学時間には遅すぎたし、お昼には早かった。

 なにも期待していない。カバンからスマホを出して、新しく買った村上春樹のエッセイを読み始める。カップを持ち上げると空っぽで、お代わりをする。

 そんなふうに時間は過ぎて、お昼休みの学生が駅裏の繁華街に急ぐ。あ、と思ったひとは傘がたまたま似ていて背が高いだけだった。……見間違えたことなんていままであったっけ。

 そのまま何杯目かのコーヒーを飲んで、店を出た。


 あの門をくぐれば……それはできなかった。なにもかも捨てて飛び込むことができなくなってしまって、自由をどこかに置き忘れたことに気づいた。

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