第37話 扉を開けて

 本格的な雨の中、小さな日傘は大して役に立たず、除湿に設定されたエアコンは体を冷やした。

 会いたかったのはわたしだけで、彼はちょっとその何文字かを打ってみただけなのかもしれない。それを本気にしてあんなところにまで行くなんて。

 ううん、なんの約束もしていない。

 それなのに「会いたい」という気持ちが通じたのなら、彼はエスパーだ。

 心の中では悲しみが不安になって膨れ上がり、嘔吐しそうなほど胸いっぱいになる。薬を。とりあえず薬を飲もう。銀色のシートから一粒ずつ手のひらに出していく。何錠飲んだら気持ちが収まるんだろう? グラスに汲んだ水で一気に飲み込む。


 疲れた。

 相棒の『ダメになるソファ』に寄りかかる。このソファはどれくらいわたしの涙を飲み込んだんだろう。意識が朦朧としてきて、このまま眠り続けたいと思う。もう会えないなら……。ううん、会ってどうしようと言うんだろう。こんなわたしじゃまた重荷になってしまう。なんのために別れたのか、それを思い出さなくちゃ。わたしを背負うには彼はまだ若すぎる。潰してはいけない未来が彼の手にはある。

 そう、わたしの叶わなかった夢の代わりに彼に夢を手にしてほしかった。


 スマホが振動して、動きを止めた。

 わたしは知らないふりをした。こんなに泣いていて出られるわけがない。

 また着信を知らせる。この小さな機械は心と心をつないではくれない。意味をなさない機械の電源を切る。

 待ってて、いま、眠りに捕まりそうだから――。


「珠里!」

「……篤志?」

 そんなわけはなかった。彼はここを知らない。混乱する。一気に現実がやって来る。靴音がわたしに迫る。

「ごめんなさい……。 聞かなかったことにしてください。間違えただけなの。寝ぼけてたの。お願い」

「……珠里さん」

 うつむくと彼は靴のままで、わたしの前に座り込んだ。

「これ、全部飲んだんですね?」

 さっき使ったまま置いてあったグラスに水をたっぷり注いで、一気に飲まされる。その勢いで大きくむせる。哲朗さんはどこかに電話をしていた。はい、はい、そうです。

「よかった。しばらく寝ていれば大丈夫だと」

 掴まれた肩が痛かった。


 頭の中は真っ白だった。

 ああ、まずいことをしちゃった。いくら寝ぼけていたからって、哲朗さんの前で篤志の名前を呼ぶなんて。だってまだ二ヶ月した経っていない。あと一ヶ月かけて、わたしは過去をすべて捨てるから。哲朗さんにふさわしい女になる。

 ブランド物だって身につけるし、そのためにAMEXのゴールドカードを使うことに慣れよう。

 そして、スマホから篤志のすべての情報を消して、ラインをブロックしよう。『愛してる』とか『会いたい』とかそんなものからはおさらばして、新しい自分になる。

 いままでだってそうしてきたじゃない? 過去はいつでもドブに投げ捨てて、その時その時に望まれる自分になってきたじゃない?

 哲朗さんの瞳にはわたしの歪んだ顔が映っていた。


「ここじゃないところに行きたいんだね?」

「行くところなんてないわ」

「きっと彼も待ってると思うよ」

「いまさらどんな顔をして……」

「もしあなたの居場所がなかったらここに戻ってくればいい。あなたの部屋が埋まる予定はすぐにはないから」

 涙に濡れて頬に張り付いた髪を拭うその指先は温かくてやさしかった。

「その前に少し眠って薬を抜かないといけないよ。いい?」


 いつかの冗談が本当になって、お姫様抱っこでベッドに運ばれる。そして彼はそっとわたしを横たえた。余計なことはなにも言われなかった。わたしは、わたしの明日のことに思いを馳せていた。枕元に置かれたスマホの電源を入れて、着信拒否設定とラインのミュートを解除する。それだけで彼の言葉が頭の中にあふれる気になる。

 季節が目まぐるしく世界を彩るように、たった一度のタップですべてのメッセージに既読がつく。

『わたしも会いたいよ』

 篤志は着信に無頓着だ。特に学校にいる時。でもわたしは待てる。待てるわたしになる……。


 その晩、夢を見た。

 いつかの公園でまた手のひらいっぱいのドングリを拾う。持ちきれない分がこぼれる。

 わたしは笑う。

 彼も笑う。「どうやって持って帰るんだよ」って。

 簡単だよ。ほら、スカートを広げればいいでしょう? ここにたっぷりドングリを入れられる。

 ツヤツヤの子も、帽子付きの子も、形の違う子も。全部、持って帰れるよ。

 くふふ、と笑った。篤志も満足そうに笑った。


 梅さんはわたしのバカげた行いを叱ったりしなかった。家に来ると、何も言わずに両手を握りしめられる。その手のふっくらとしたやわらかさは失って久しい『お母さん』を思い起こさせた。


「お嬢様、やっぱり水曜日も梅が来ればよかったですね」

「そんなことは関係ないんだよ。全部、わたしの心の中の問題だから。梅さんはなにも後悔する必要はないよ」

「いつ戻られるんですか?」

「今日にでも出ていった方がいいのはわかってるんだけど……彼は哲朗さんみたいに忙しくて、日曜日しか家にいないの。だから、日曜日に」

「遊びに来てくださいねって言いたいところですけど、無理を言ってはいけませんね」

 彼女は悲しそうな顔をした。そしていつもより小さく見えた。横顔が、年齢を感じさせた。


 梅さんと会うのは最後になる金曜日、わたしたちは最初に会った日に約束したグレービーソースを作った。これから先の人生でグレービーソースを作る日がまたあるかはわからなかったけれど、とりあえずグレービーソースのためにローストビーフを焼いた。

 そして罪深く、それをふたりでお昼に食べてしまった。梅さんは「最後の晩餐ならぬ昼食です」とやけに真面目な顔で言ったので、わたしは笑ってしまった。「ただの悪いことだよ」と言うと「坊ちゃんに対する天罰ですよ」とナイフでローストビーフを薄くスライスした。それは厳かな昼食だった。

 帰り際に梅さんは「しあわせになるというのは、悪いことではないんですよ。自分のためにしあわせにおなりなさい。ご両親もそう願ってると思いますよ」と言ってわたしは両手で顔をおおった。梅さんは小さい体でわたしを抱き寄せると、「離れても娘同然だと思っていますから」とささやいた。


「行くんですね?」

「はい、お世話になりました」

「いいんですよ、まだ三か月に満たない。油断しました、あなたの全部が僕のものになったような気がしていた」

 わたしだってそのつもりだった。すべてを哲朗さんに差し出したつもりだった。

「あなたには僕を夢中にさせた魅力がある。なにも持っていないんじゃないってこと、忘れないで」

 大きく一礼した。哲朗さんは玄関まで送ってきたりしなかった。荷物は少しも増えなかった。相変わらずカバンひとつ。

 AMEXは哲朗さんに返した。このカードを使うことがなかったことに安心した。


 家を出てきたあの土曜日からぐるりと日が回って、日曜日に家に帰る。日曜日は篤志の休日だ。

 外は梅雨の晴れ間、青空が広がっていた。持っている中でいちばん華奢なかかとのサンダルを履く。ペディキュアをもう少し明るい色にすればよかった。

 エレベーターを待つつま先がムズムズする。この扉が開いたら走って行こう、全速力で。

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