第4章 思い出はすり減って(篤志)

第38話 拾いもの

 ◇◇◇ 篤志


 それは冗談じゃなかったのか? そうじゃない、いや、そうだ。頭の中でバカな議論を始めて、いつも通り早足で家に帰るとそこに彼女はいなかった。一切の荷物もなく、メモ一枚もなかった。

 信じられなかった。

 どんな気持ちで珠里が自分を置いて出て行ったのか、それは昨日の話通りなのか、確かめてみなければわからない。

 電話をする。着信拒否だ。ラインをする。既読がつかない。

 ……捨てられたんかな、とようやく思いつく。

 別に彼女に返してほしいものは何もなかった。あると言えば、帰ってきてほしかった。

 だから、既読がつかなくてもメッセージを送る。


『愛してる』

『帰ってきてほしい』

『連絡して』

『元気にしてるの?』


 情けない言葉の連なりは次第に空虚になって、誰かが『ラインでブロックされてるか確かめる方法』について話している。

 そんなこと確かめてどうするんだよ。「やっぱり俺、ブロックされてたわ」って笑える余裕は全然ない。

 誰も見てないことを確かめて、こっそりヤフ知恵で『ブロックされているか確かめる方法』を見る。……確かめることができない。一緒に暮らしてたから、いままで密にラインでやり取りすることなんてなかった。それでも拒絶は怖い。

 孤独が背中をすっと触った気がしてビクッとなる。愛されてないということは毎日心に傷をつけていった。


 当然のように研究室にこもりっきりになる。ふと時計を気にする。八時を過ぎた。珠里が……もういないから。

 繰り返し繰り返しデータを取って、それでも余った時間にはみんなとお茶をしたりする気には全然なれず、試験管やシャーレを次々と洗った。

 俺のネガティブな動機は知らずに、教授から少しずつ信頼を得ていく。

 梅雨前の夜の外気は少し湿っていて、自分に落ち着くように言い聞かせてひたひたと夜道を歩く。

 もう、小走りになる必要はないんだ。


 そんな毎日を送っていると、うちの研究室を希望している三年生の女の子が、実験の片付けをしていた俺のところに現れた。

 その子は細い縁のメガネをかけて、黒くて量の多い髪をショートカットにしていた。少し甲高い声で早口でしゃべって、薄い体をしている。背の低さと相まって、中学生くらいに見えた。

「先輩、あの! 宍倉朝子ししくらあさこって言います。先輩にもし彼女がいないならつき合ってもらえませんか?」

 彼女がいないなら――俺が珠里に捨てられたことはぼちぼち噂になっていた。

「悪いけど、今は研究で手一杯でそういうことを考える余裕がないんだ。ごめんね」

 その子は俺をじっと見上げて部屋を出て行った。

 彼女がいるとかいないとか、そんなことは関係なく珠里だけが欲しかった。こういうのが『愛してた』ってことなのかと腑に落ちる。両手のひらを見つめても、そこにもう珠里はいない。

 あの子は今日、もしかしたら泣くのかもしれない。でもそれは一生に一度の恋というわけではなくて、そのうち簡単に忘れてしまえることだ。

 心が引き裂かれているのは俺の方だ。


 その週末、ゼミで飲み会があって、ちょくちょく顔を出す三年生の姿もちらほら見えた。サークルのように誰かが誰かのお酌をしたりすることもなく、和気あいあいと話は弾んでいた。


 俺はあの日のように壁にもたれてビールの中ジョッキをちびちび飲んでいた。炭酸の抜けたビールは不味かった。

 と、先日告白してきた宍倉さんがビールのジョッキを目の前にいくつも並べているのが目に見えた。彼女は他の人から死角になる角の席に座っていて、目の前のジョッキは見事にすべて空だった。正体を失った彼女は友だちに介護されてるようだった。

「どうしたの? 飲みすぎたんじゃないの? 大丈夫?」

「先輩、この子飲みなれてないのに上限いっぱいまで飲んじゃったみたいで……。目は虚ろだし、呂律ろれつも回ってないし」

 佐田さんというその女の子は宍倉さんの親友らしく、ひとりで彼女を介助していた。

「とりあえず水、飲める?」

「……三上先輩? 先輩が目の前にいるなんて嘘みたい」

 すみません、絡み酒で、と佐田さんが謝る。

「宍倉さん、水飲もう?」

 彼女の手の中に置かれたジョッキを横に外す。そこに水の入ったグラスを置く。


 その頃になって周りも彼女の様子に気づいて、どうしたんだ、という話になる。

「その子、もうひとりで帰れないんじゃないの? 三上、送ってやれよ」

「佐田さんは?」

「わたし、途中までは一緒なんですけど」

 送ってやらなくちゃいかんかな、と考える。でも少し休ませた方がいいような気もするし、方面が一緒のやつと帰ればいいように思う。

 とりあえず席を立とうとした。


 突然、腕を引かれてぶら下がるように宍倉さんに手を拘束される。あまりのことに呆気にとられる。

「先輩、送ってください! ひとりじゃ帰れません」

 なぜか周りから拍手が飛ぶ。

「いや、俺は」

「送ってください。先輩がいいんです」

 目がうつろだって? こんなに強い目力なのに?

「三上、送ってやれよ。駅まですぐだろう? どうせ女に捨てられたばっかりなんだし、なにも遠慮することないだろう?」

「そうだよ、送ってもらいな。でもこいつ、手が早いから気をつけなよ」

 みんなの意見に反論することはできたけど、彼女のしがみつく力が尋常ではなくて、無理やり外に連れ出される。先輩すみません、と佐田さんが頭を下げる。


「駅まででいいのかな?」

「駅で捨てていってください」

 佐田さんは真面目な顔でそう言った。女同士の友情って面白いなと思う。その間、宍倉さんは聞いているのか聞いていないのか、顔を下に向けていたから表情かおがわからなかった。

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