第39話 傘がない
宍倉さんはひとりで歩けないようで、危ない足取りのところを肩から背負うようにして引きずる。上機嫌な酔っ払いで、時折、ふわっと酒のにおいがする。どう考えたって飲みすぎで、こんなふうに歩いているといつかのことを思い出す。
あの日の珠里はどんな服を着てたんだっけ……。
思い出せないわけはなくて、思い出にしがみつこうとしている自分に嫌気がさす。
店を出て駅前の喧騒に巻き込まれる。いつの間にか弱い雨が降っていた。同じように酔った学生がぶらぶらしていて、危うく肩がぶつかりそうになる。
「宍倉さん、電車はどれに乗るの?」
彼女は重い頭をふらっと上げて一瞬駅を見つめたが、いきなり方向を変えて俺を見た。
「帰りません」
「帰りなさい。家の人も心配するでしょう」
「……帰りません。先輩、ホテルって泊まるといくらくらいですか?」
突然のことに面食らう。
一体、なにを言い出すんだ、この子は。
「帰らないの? どうしても」
「帰りません、今日は。ラブホ、行きましょう」
「俺? いや、俺は帰るよ」
「いいじゃないですか、お金は全額払います。それとも先輩の部屋に泊めてくれますか?」
それは。
それは勘弁してほしかった。
珠里の匂いがまだ残るあの部屋に、よくわからない女の子を連れ帰るなんてできっこない。今日だって飲んだらふと悲しさが襲ってきて、さっきの店のトイレでラインしたばかりだ。『帰っておいでよ』って。
意気地無しの俺にはそれしかできなかった。
宍倉さんは女の子とは思えないすごい力でぐいっと俺を引っ張る。違う、この子、酔ってない。すごい酒に強いんだ。
「こっちですよね」
「ちょっと待ってよ。俺は彼女が……」
「彼女は先輩を捨てたんでしょう? もういないです」
なんでこんな子にそんなことを言われるんだろう。それで俺はなんで口をつぐむんだろう。
いつまでだって待とうって気持ちは時間とともにあきらめになってきた。それを認めたくなかった。あきらめてしまったら、本当に手が届かない。
「あ」
気がつくと引きずられるままにホテルの薄っぺらいペラペラしたカーテンをくぐるところだった。
「勘弁してよ」
「ダメ。誰にも言わないし、秘密にします。一度でいいんです。お願いします、ここでこうしてる方が目立つし、恥ずかしいから」
ぐいっとまた腕を引かれる。なんでこの子はこんなに力が強いんだ。
彼女は俺をメガネをかけた目でにっと見つめると、楽しそうに部屋を選び始めた。
もうどこにも逃げないと思われたのか、今度は俺の腕にしがみついてくる。それはそうだ、ホテルに来慣れているようなタイプじゃないだろう。まるで真面目を絵に描いたような子だ。もう三年になったはずなのにまだ新入生のようだ。
「あの、なにをしたらいいんですか?」
「なにって?」
「……部屋に入ったら」
閉口する。
俺がそれを望むと望まないに関わらず、ここに来てすることはひとつだ。いくら幼くてもそれくらいは知ってるだろう。まさか知らないのに来たとは言えないだろうに。
「シャワーでも浴びなさい。雨に濡れたし」
「……はい」
なにやってんだろう?
どんどん珠里から遠くなる。これが、神様の望む結末なのか? 俺たちは引き裂かれて終わっていく……。シャワーの音を聞きながらスマホを出す。珠里、また未読だ。こうやって離れていく。まだそばにいたいのに、距離が。
「先輩、どうぞ」
短い髪はまだ半乾きのまま、白いバスローブを着て宍倉さんは部屋に戻ってきた。
パーカーをリュックの上に脱げ捨てる。考えても仕方ない。
「先輩」
ベッドサイドにはボルヴィック、シャワーの後もTシャツにデニムのままベッドに転がっている。文字通り、川の字だ。あっちとこっちとの間には明らかに温度差という壁があった。それが俺を安心させた。
「なに?」
「先輩は卒業したら、院に進むつもりですか?」
「うん」
そうですか、と彼女は小さな声で答えた。ここに来た時とはまったく違う、しおらしい態度だった。
「あの、将来はやっぱり研究者ですか?」
なれたらね、と自分でも不確定な未来に言及する。いつまでも訳のわからない夢に引きずられてるから大切なものを失う。手のひらからこぼれ落ちたもののほうが、ずっと重く感じていた。
「先輩は女の人に捨てられたって本当のことなんですか?」
「答えなきゃいけない?」
「いえ、てっきり先輩は研究熱心なひとで、彼女がいたなんて思ってなかったので」
しーん、と部屋が静まり返る。
しとしとと雨の降る音が聞こえたような気がして、あのまま帰っていたら降られたかもな、と思う。
いま、ここを出ようにも傘がない。
「……先輩、わたし、そのつもりで来たんですけど、先輩はそういう気分にはなれませんか?」
「やっぱり俺、期待されてんの?」
「はい。じゃなかったら無理やりこんなところに来ません」
無理やりだったんじゃないか。ほら、こんなふうに巻き込まれていく。思いが空回りして、一周してから、彼女に届く位置まで体の向きを変える。
珠里はもういない。それを受け止めてしまえばいっそ――。
「宍倉さんて不潔なことは嫌いそうだけど、ディープキスって知ってる?」
「映画でしてるような?」
「そう、あれ。一応、寝る前だから歯は磨いてあるけど、酒くさかったらごめん。歯を食いしばらないで、それから舌、噛まないでね」
彼女は一瞬、無垢な女の子の顔をした。見え隠れする下心はなくなって、大人しくまぶたを閉じた。そっと近づいて、瞬間、戸惑う。こんな俺はいい具合に珠里に似合わない男になっていく。
唇をゆっくりつけると強張っていた彼女のそれは力が入ってやわらかさを失った。それでも舌を差し入れて、彼女の舌を探し当てる。舌触りがざらっとして、久しぶりに違う子とするキスはこんなんだったかな、と思う。逃げ惑う彼女を押さえつけるように口を塞ぐ。本当にキスひとつ未経験でこんなところに男を連れてくるなんて、一体、どんな度胸なんだ?
バスローブの紐は彼女がみじろぎしただけで簡単に解けてしまい、その下には下着姿の彼女がいた。
「やる気だったのに、下着つけてたの?」
「おかしいですか?」
「けっこう」
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