第40話 会いに行くよ

 下着を外すと、彼女の息づかいはまるでランナーのような一定のリズムになってきた。

 呼吸は乱れているようで乱れていない。

 そこに時々、もともと甲高い彼女の声がさらにワントーン高くなって混じる。

 まだ幼くてあどけなさの残る顔が歪んで、体をよじる。

「痛い?」

「……大丈夫です」

 女の子の感じ方はわからない。そんなものを知ろうとしたって想像上のものでしかなくて、それを知りたいなら彼女の体に聞いた方が早い。

 感じている。すべては決まった順序通り。教科書を読むように行為を続ける。

 ゆっくり、じっくり彼女の帯びる熱が上昇して、心拍数が上がり、逃げ腰になってきた。

 

 思い出したりしたらいけないひとの顔がふっと目の前にちらついて、手が止まる。そんなもの、壊してしまえばいい。もうそれはただの幻想だ。


 ゆっくり余裕を持ってTシャツから脱ぐ。肌がたまたま触れたところで彼女が声を上げた。

「先輩、ちょっと待ってください! わたしダメ、もう怖くて無理です! これ以上続けるのは怖いです」

 ――それを聞いて、肩の荷が下りる。ふぅ、とため息が出る。

 隣では嗚咽をもらして彼女が泣いて、こっちだって泣きたいよ、と言いたくなる。

 男はいつだって女とやりたいわけじゃない。変な期待を持たれてもそれは重い。まして、素敵な思い出なんか作ってあげるほど余裕はない。

「……ごめんなさい。大丈夫です、続けてください」

「もう無理する必要ないでしょう? いいから、シャワーをもう一度浴びて寝なさい」

「……先輩は?」

「始発が来たら帰ろう。それまでよく休んで」

 ずるずると用をなさなくなったローブを引きずって、彼女は涙を拭いながらシャワーを浴びに行った。


 スマホを手に取る。

 いつだって既読はつかない。どうせブロックされてるかもしれないなら、俺のすべてが変わってしまう前に伝えておこう。珠里を思う気持ちのすべてを。

『愛してる』

 愛してる、その気持ちに嘘はない。

 いまだって帰ってきってくれるならなんだってする。迎えに行って、抱きしめて、もう離れないように。

 大学なんてどうでもいい。珠里に比べたらそんなもの、大して意味をなさない。なのにどうしてそこにぶら下がり続けたんだろう? 大切なものはすぐそばにあって、でも失うこともあるってことに気づかなかった。

 どんなに愛していても手の届かないところにいたら、それは遠い過去になっていくのかもしれない。

 ベッドに座って考える。

 珠里はその男をもう愛しているんだろうか? 俺のことは忘れたんだろうか? 俺はまだ忘れていない、決して忘れていない――。


 そう思ったのに、あっと言う間に、あの夜、俺と彼女の間になにかがあったに違いないという噂が広がっていった。誰かが俺たちのすぐ後に店を出て、駅を素通りしたのを見たのだと言う。

「……あっちゃん」

 そんな呼び方をされるのは子供の頃以来だと言ったのに、彼女はその呼び方を気に入ったらしくわざわざ研究室の扉を開けて顔をのぞかせる。俺はガタンとイスを下りて、急いで廊下に彼女を連れ出す。

「サコ、研究室に個人的な理由で顔を出したらいけないって言ってるじゃん。ちゃんと聞いてるの?」

「だってあっちゃん、ラインつながらないし」

「あのさ、マナーモードにしておくだろう、ふつう」

 サコ、というのは宍倉朝子の通称で、彼女はみんなにそう呼ばれていた。しかし「あっちゃん」、「サコ」と呼び合うようになってしまっては他の連中に好き勝手言われても仕方ない気がした。

 流されるまま、いつの間にか、俺はサコの公認の彼氏に昇格していた。


 あの夜からラインの通知がサコから大量に届くようになって、珠里にあの晩、『愛してる』と打ってからラインはただの中身のないおしゃべりな道具になった。大事な言葉はもう届かない。返事もない。これでいいんだ。

 いつか、俺から珠里の連絡先を消す日が来るんだろう。「もう連絡を取ることもないよな」って。

「あっちゃん、もうお昼になる?」

「まだかかる」

「そうなんだ。……じゃあ、真弓ちゃんと食べるからいい。またラインする」

 気に入らないという顔をしながら、サコは廊下を歩いて行った。研究室に戻って作業の続きを見直す。


「お前さ、あれはまずいんじゃないの?」

「あれ?」

「宍倉さんだよ。彼女、本気にしちゃうだろう? いいの、それで」

「ああ」

 下を向いて歩く。小林はいいやつだ。いわゆる『気の回る』人間だ。

「もういいよ。そういうことになってるんだろう?」

「そんなやけっぱちな。そもそも、お前って悔しいけどモテるんだよなぁ。ぼーっとしてるのに」

「人並みだろう?」

「そういうところがムカつく。一年のときだってみんなが狙ってた桜木さんとあっさりつき合っちゃうし。あれって告られたんじゃないの?」

「三ヶ月だよ、続いたのは。一浪してるから、年上の男ってやつを期待してたんじゃないの? 『思ってたのと違う』って言われたもん」

 小林ははぁっと、俺の代わりにため息をついた。ティッシュ一枚がやっと飛ぶ程度の軽いため息だった。

「その前は?」

「高校の時に一年半つき合った子がいた」

「告られた?」

「まぁ。それでもって、『なに考えてるのかわからない』って泣かれた」

 そう、思えばいつもそんなんで恋愛に夢中になることはなくて、向こうが望む程度に笑顔でいたらいいんだろうってそういう考えだった。

『つまらない』と言われても、そんなの知らんわと思ったのは、自分からすきになったわけじゃないって免罪符が常にあったからだ。


「自分から告ったことないの?」

 ズキン、と忘れようと思っていたことが頭をもたげる。

 頭の中に消しゴムをかけて忘れられたら。

「ある。前の彼女のとき」

「あー、すごい美人だったのになんで別れちゃったの? なかなかお似合いだったのに」

「なんで知ってるの?」

「あれだけふたりで仲良く学内を散歩してたら、嫌だって目につくだろう? 手をつないでさぁ。見せびらかしたかったんじゃないの?」

「そういうわけじゃないけど」

 あの頃、珠里はまだ元気で少なくとも仕事に行くとき以外はにこにこして一緒に学食に行った。そしてそのついでにキャンパスの中を散歩して、学校のことを珍しがる珠里にいろんな場所を見せた。購買や、サークル会館や、体育館や。


「……三上、大丈夫か? お前、泣いてるぞ」

 ああ、気づいてみれば頬をなにかが濡らしていた。ぐっと手の甲で拭い去る。

「彼女のこと、忘れられないんじゃないの?」

「忘れられるわけないだろう? 珠里はキレイなだけじゃなくて特別で」

「会いにいけばいいのに。まだ戻れるかもしれないじゃないか」

「無理だよ。知らないエリートサラリーマンと暮らしてる。結婚を前提にって言われたらどうすればいいんだよ」

 お前、院志望だもんな、と同情するように小林は言った。

「院に行ったらまだまだ学生だし、結婚は遠いな」

「院は、あきらめてもよかったんだ……」


 小林は俺を訝しそうに見て、そしてこう言った。

「彼女に会いに行けよ。ダメ元でも、いまのままよりずっといいだろう?」

「知らないんだ、駅前のマンションに住んでるってことしか」

「なら、一日中その前で待ってればいいじゃないか? すきなものを放り出してもいいと思ったなら、それくらい簡単だろう?」

「……お前が教えてくれた公園に、一緒に何度も行ったんだ。お前、いいやつだな」

 いまさら何言ってるんだよ、と恥ずかしそうに小林は笑った。だって考えたこともなかったし。一日中、あのすごい建物の前で、もしかしたら出てくるかもしれない珠里を待っているなんて。

 会いにいくよ。

 会いにいくから、待ってて。

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