第41話 すごくストイック

 駅までの緩やかな坂道を下って、そのタワーマンションに着く。家からも十分に見えるその大きさは、まるで自分なんか豆粒のような存在なんだと言われているようで怖気ずく。

 金持ちがたくさん住んでいるんだろう、そのマンションの前で、いつも通りくたびれたパーカーを着てなんでもない顔をして入り口が見えるところで立っていた。

 エントランス先には立派なエレベーターがあるようだった。もし、珠里が出てくるとしたらあのエレベーターを使うんだろう。待っている時間は神経をすり減らしていく。

 街は相変わらずにぎやかで、知らない顔をしたひとたちが次々と早足で通り抜けていく。梅雨の曇り空も、今日は雨をもたらしそうにない。


 ……やっぱりこんな場所で待ってるなんてストーカーっぽいよな、ときびすを返そうとした時、聞き覚えのある声が耳元をすり抜けて行った。久しぶりに聞くその声は、軽やかな鈴の音のように心を浮き足立たせた。

 珠里……。


「あんまり高いお店じゃ困りますよ」

 珠里は一緒に買ったあの墨色のワンピースを着ていた。その上に白いシャツを引っかけて……あれもUNIQLOで一緒に買ったシャツ。悩んで、悩んで、悩んだ末に買った一枚だ。

 たまには色のついたものを買えば、とあの時も俺は言ったけれど、そのシャツは珠里の色の白さをよく引き立てていた。

 そしてその横に、例のサラリーマンがいる。

 長身で、それでいて決してひょろくはない。ほどよい筋肉がついているその体は、珠里を守るのにふさわしいように思えた。

「いいじゃないですか、たまには。美味しいもの、すきでしょう?」

「贅沢です。それにこんな格好で来ちゃったし」

「じゃあ、そこのデパートでマイ・フェア・レディというのは? 頭の先から足の先まで全身コーディネイトしてしまえばいい。……冗談です。贅沢は敵ですよね。そういうのはきちんと予約をして今度、行きましょう。例えばそう、三ヶ月の記念日とか」

 もう、と珠里は言って膨れて見せたが、男は笑った。


 こんな中途半端な時間に出てくるなんて、ブランチにでも行くんだろうか? じゃあ、この時間までふたりはなにをしていたんだろう。同じベッドで寝て、それから? 悪い妄想はどんどん広がって心を重くさせる。

「食べたいものは?」

「お任せで」

「じゃあ、麺類にしましょう。たまにはフォーなんかどうですか? 見つけたんですよ、珠里もすきなんじゃないかと思って」

 サラリーマンがすっと手を差し出す。珠里がためらいもなくその手を取る。ふたりは手をつなぐ。

 どうしてそこに割って入れないんだ。珠里のためならなにかを失ってもかまわないって決めたんじゃなかったのか? ふたりの間に割って入って、そうしたら珠里は驚くかもしれないけど、サラリーマンは大人だ。じっくり話し合ってきちんと別れたらいいって時間くらいくれるかもしれない。

 そうしたら全力で言うのに。

『愛してる』って、『帰ってきてほしい』って、『ずっと一緒にいたいんだ』って。

 なのに、ふたりの背中は遠ざかっていく。寄り添って、さも仲がいいというように。

 どんどん遠くに行ってしまうのに声がかけられない。足が動かない。

 珠里を見るのはこれが最後かもしれないのに。


 サコはうれしそうに手を引かれて半歩後ろを歩いていた。二本の傘がぶつかる。

 今日は久しぶりに早く帰れることになって、サコに捕まった。サコはその何を考えているのかよくわからないメガネ越しの顔で「先輩の部屋に連れていってください」と言った。

 あの日、それは困ると思った。珠里の居場所を失くしてしまうような気がしたから。でもいまはどうだ。心の中の珠里の場所が、どんどん小さくなっていく。


 サコとホテルに行ったあの日から、珠里にラインはしていない。既読のつかないそのメッセージは『愛してる』とバカみたいにいつまでも表示されていて、削除してしまおうかと見る度に悩まされる。

 一方通行の片想いがバカらしく思えてきて、この辺が潮時かもしれないと思う。

「うれしそうだね?」

「ちょっと」

 ふだんはおしゃべりなサコはなにも言わないでニヤッと笑った。


 それをすることに意味があるかはわからなかった。でもサコから二度目を求められて、サコにもサコなりの女としてのプライドがあるのかな、と思う。

 もう何も隠すことはないのでサコは服を全部脱いだ。彼女は大雑把に下着まで全部脱ぐと、恭しくうちの薄い布団に入ってまるで前回の復習をしているかのような顔をした。

 俺も湿気がたまらなくて上を脱ぎ捨てる。中途半端な運動部にしか参加してこなかった体は、あのサラリーマンより貧弱に思えた。

 見れば見るほど、サコは幼い顔をしていた。目を閉じてキスを待つその顔は、まるでサンタクロースを待つ子供のようだった。

 上からそっと被さるように唇を重ねる。まだ少し強ばったそれから、鍵を開けるように強引に舌をねじこむ。ざらりとした感触がまたして、ふたりの違いに戸惑う。どうしたってふたりとも女だ。するべきことをすればいい。どうしたらどうなるのか、それは知っている。


「どこがそんなにすきなの?」

「……真面目で、一生懸命なところ。ひとつのことに集中できるのってかっこいいなって思って。あっちゃんの白衣姿がすき。すごくストイックなひとだと思う」

 あまりにおかしくて思わず笑いをこらえられなくなりそうになる。な男は、たぶん女のことで道に迷ったりしない。そして、ねだられてもほかの女を抱こうとしたりしないだろう。

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