第42話 プライベートなこと

 二回目もサコは怖がって結局、最後まで行かなかった。

 自分にとってはどっちでもかまわないことだったし、こっちの過失でもないわけだから「ごめんなさい」と言われても謝られる理由はなかったし、謝る必要も感じなかった。既成事実がほしいのはサコの方で、どっちみち俺はサコに縛られていた。

「晩飯でも食べに行く?」と誘うと目を輝かせて服を着て、なにかを大切そうにカバンから取り出した。彼女は女の子の顔をしていた。

「これ、置いていってもいいですか?」と黄色いプーさんのカップを取り出した。


 それは俺を迷わせた。

 台所には俺と珠里のおそろいのカップが置いてあった。一度だけたまのをしてディズニーランドに行った時に買った。ドナルドとデイジーのブルーとピンクのカップを手に持った珠里は「これくらいなら贅沢じゃないよね」とうれしそうに笑った。

 その思い出の真ん中にサコはなにも聞かず満足げにプーさんを置いた。

「プーさんがすきなの?」と聞くと「ティガーもすきです」とピントのズレた返事をされた。

 もう珠里は帰ってこない。

 帰ってこないなら、処分されるのはデイジーの方だ。黄色いカップは部屋の明かりを消しても、その存在を知らせていた。バタンとドアを閉めて閉じ込めた。


「あっちゃん、なにを食べる?」

「そうだな」

 五目そばが浮かぶ。もうずいぶん食べていない。気がつけばもう珠里が出て行って一ヶ月過ぎた。この一ヶ月の間に自分のしていたことは――。

「学校の方まで歩くけどいい?」

「うん。今日は泊まってもいい?」

「……ダメ。なに考えてるかわかってるし。今日は二度目はなし」

「ワンチャンくれてもいいのに」

「また今度ね」

 すっかり雨が上がって、信号は青に変わる。行こう、とサコが手を引く。引かれるままについて行く。

 中華料理店に着くと、サコはメニューを見て天津麺を指さした。ふわふわした卵がすきなんだと言った。バカみたいにほっとした自分に気がつく。珠里との思い出は誰とも分かち合いたくない。誰にも知られず、心の内にしまっておきたい。

 そうして珠里も同じように想っていてくれたらいいと、勝手なことを思う。

 出てきた五目そばと天津麺を見てサコは大袈裟に喜んだ。「こういうお店って真弓ちゃんとだと女の子同士で入りにくいからうれしい」と笑った。

 子供みたいに素直で無邪気なところがサコの美点だった。


「あっちゃーん」

 後ろから走ってきたサコは俺を見つけると大きな声で名前を呼んで手を振ってきた。

 恥ずかしいから早々に手を振り返す。隣の小林が嫌な顔をする。

「宍倉さんだからいけないって言ってるわけじゃないんだよ。ただ、お前が無理してるように見えるだけ。いいんだよ、ただのお節介だから気にするな」

 お節介だよ、と言い返す。

 深く考えるな。酔っ払った珠里を拾ったのと同じように、酔っ払ったをしていたサコを拾った。自分はそういう役回りなんだ。意味なんてない。


 昼休みに入ってスマホを見ると、ラインのプッシュ通知がついていた。

『お昼休みに学食前で待ってるね。三コマは休講になったからゆっくり待ってる。終わったら返事ちょうだい』

 お誘いだった。

 返事をする。

『終わったから行くよ』

 それほどラインは使わないのに、トーク画面で『珠里』はどんどん下に追いやられていた。相変わらず既読はついていない。

 彼女がいま、どんな気持ちでどんな生活を送っているのか想像もつかない。

 大切にされているんだろうか、具合は悪くなっていないんだろうか、夜はよく眠れているだろうか……それはあまり面白くない想像だった。

 ひとの温もりが眠りを促進する。

 珠里のいまの眠りを支えているのは、あの男だ。

 心配はそいつの役目で、その役目はもう俺には回ってこないんだ。


「あっちゃん、ここ!」

 一際大きな声で呼ばれてそっちを見ると、なぜか佐田さんも一緒だった。

「あれ?」

「たまには真弓ちゃんも一緒にどうかなって思ったんだけど」

 佐田さんは心底、迷惑そうな顔をした。間違いなくつき合いで連れてこられたんだろう。サコのそういうところは感心できない。

「こんにちは」

「こんにちは」

 席、取ってくるねとサコは意気揚々と混んだ学食に分け行った。

「けっこう待たせちゃったでしょう、ごめん」

「いえ、先輩が悪いんじゃなくてサコが悪いから心配しなくていいです」


 会話は続かない。

 しばらく沈黙が続いた。

「先輩、サコを大事にしてますか?」

「……一応」

 覚えている限り、機嫌を損ねるようなことはしていないはずだった。なので佐田さんからにらまれる覚えもない。

「なにか言ってた?」

「……セックスが」

 彼女の言葉はそこで途切れた。真昼間の混んだ学食の入り口で話すことではない。

「遊びなんですか?」

 言葉に詰まる。向こうからいつも迫ってきてるのに、『遊び』と言われても。

「遊びってどういうの? サコとはし、聞いているかわからないけどそれはサコの問題でどんなに仲が良くてもわからないこともあるんじゃないかな?」

 彼女も一瞬、息を止めた。

「サコはできなくて悩んでるんだけど、先輩が適当にやってるからじゃないんですか? 女の子って準備に時間、かけてくれないと」

「どっちでもいいけどさ、俺はふつうにしてるし。『怖い』って言って最後まで行かないのはサコの方だって聞いてないの? 悪いけどいくら親友でもプライベートに立ち入るのはやめたら? 相談くらいは聞くとしても」

 ごめんなさい、と佐田さんはつぶやいて、サコの期待していた『親友と彼氏とランチ』は台無しになった。サコ以外、どっちもしゃべらなかった。

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