第6章 エピローグ
第54話 手紙
◇◇◇ 珠里
『前略 梅さんへ
笑うかもしれませんが、わたしは以前話した大学生の男の子と入籍しました。バカげているでしょうか?
あの完璧な哲朗さんを育てた梅さんなら、そう思うかもしれません。でも今はとてもしあわせです。彼はずっとわたしの家族だったけれど、これで本物の家族になれたからです。
またさみしさに襲われる日もあるかもしれない。けど、大丈夫だと思うんです。だってこれからは絶対に帰ってきてくれる人が、わたしを必要としてくれる人がいるんですもの。
哲朗さんだって、確かに毎日わたしのところに帰ってきてくれたというのはわかってるんです。なのに、哲朗さんの気持ちに応えられなくて申し訳なく思っています。
好きとか、嫌いだとか、そういうことを通り越して、わたしはわたしの選んだ彼の帰りを毎日待ちたい。それはわたしにとって彼が特別な人だからかもしれません。
上手く言えないけど、どんなに帰りが遅くても、彼が帰ってくることを楽しみにしながら待っていられるわたしになりたい。彼の不在に震えて、捨てられたのかもしれないと孤独に震える女とはもうサヨナラです。
彼のために梅さんに教わったお料理のうち、コストの低いものを選んでご飯を用意して、鼻歌を歌いながら洗濯を畳むような女になります。
哲朗さんにはどんなに謝っても謝りきれないけど、大切に思ってくれたことに感謝しています。わたしよりずっと素敵な女性が見つかると思います。どうか、わたしのことは忘れてくださいと伝えてください。
哲朗さんがしあわせになることも、わたしの一つのしあわせであることをお伝え下さい。
梅さんのお陰で、そちらにお世話になっている間、楽しい毎日を過ごさせてもらいました。ありがどうございます。もしかしたらもうお会いできないかもしれませんが、感謝しています。梅さんのことは一生忘れません。早くに亡くした母親のように温かかったです。ありがとうございました。どうぞ、元気でいてください』
便箋を畳んで封をする。
宛名を間違えないように、あらかじめ住所は書いてあった。……わたしの住所は書かなかった。
もし届かなくても、ここへ返ってくる必要のないものだ。
くだらない告白だ。自分が楽になるための。
篤志はまだ学校だ。
わたしはひとりにしてしまった哲朗さんのことを思ってため息をつく。あの人を、ひとりにしてしまった。
あの人の中にあるさみしさを埋めてあげたいと思ったことも多かったけど、わたしのさみしさの量の方が段違いに重くて、埋めてあげることは叶わなかった。
今頃、あの人は「ダメになるソファ」の良いところを思い出してくれた?
あのソファに一人で座ることの意味について考えてくれた?
誰か、一緒にダメになってくれる人を見つけた――?
きっと、哲朗さんを見つけてくれる人がどこかにいるはずだ。わたしのように薄情ではない、情の深い温かい女性が。
自分でも何も考えず自然に腰が浮いた。
手紙を握りしめて走り出す。安物の、スペルの間違ったプリントのTシャツとウエストゴムのゆったりしたスカートを履いていた。
なんにも、なんにも考えないでサンダルをつっかけて走った。目的地までは下り坂だ。線路の、ガード下を潜る。
あともう少し、駅前の大きな交差点を渡ればすぐ。
息が乱れる。失速する。それでどうするというんだ? どうなるというんだろう?
彼が「おめでとう」と無邪気に笑ってくれるとでも? ……サンダルは急に重くなる。
カタン、カタン、音を立てるのは安物のサンダルで、赤く塗っていたペディキュアは、よく見たら剥がれかけていた。
どうしよう? 行ったら十中八九、彼に会ってしまう。その後、わたしはどうしたらいいんだろう?
鍵は返してしまった。部屋番号を押す。まだ忘れていない。
「はい」
「…………」
なんて言ったらいいのかわからなくて、言葉に詰まる。息を吸い込む。
「珠里、です」
向こうで哲朗さんがわたしと同じように息を吸い込むのがわかる。
「僕が下りた方がいい? 珠里が部屋まで来てくれる?」
多少の覚悟が必要だった。でも、来てしまった以上、仕方がない。
「そちらに行ってもいいですか?」
「待ってるから」
どうして来てしまったんだろう? 申し訳ないと思ってしまったから? 今までだって昔の彼に会いたくなったことはなかった。
「待ってたよ」
「……梅さんに、手紙を」
受け取った哲朗さんは不思議な顔をした。表書きまでしたその封筒を、ここに持ってこなければならない理由は何もなかった。
「とにかく上がって」
いつもと同じく、哲朗さんは紳士的だった。スリッパを出してくれてリビングに通してくれた。
「あの……今さらだけど、ダメになるソファ、二人で座ってみない?」
え、と思ったけれど、ここに来るのは恐らく最後になるのだからと思うと、それもいいかもしれないと思えた。
「哲朗さん、その前にお茶を」
「いいから、こっち」
彼はいつになく無理にわたしを誘った。子供が無邪気にブランコに誘う時のように、手首をつかんでぎゅっと。
わたしが慣れたソファに座ると、哲朗さんの匂いがした気がした。
哲朗さんはいつもテレビの前に置かれたままだったソファをわたしの隣に持ってきた。そして、自分もソファに体を沈めた。
「青空の中を散歩してるみたいだね」
「……はい」
しばらくは沈黙しかなかった。二人でバカみたいに空ばかり眺めていた。確実に日焼けは免れない。何しろつっかけ一つで来たのだから、日焼け止めなんて塗ってない。
「手を、つないでもいいかな?」
どうしよう、と迷う。けど少しなら、とそっと手を出す。
「気分がいいね。いい感じに脱力して疲れが取れる」
「そうですね……」
沈黙。
「もっとふたりでこんな風にしたら良かったね。家にいる休日は、わざわざどこかに出かけたりしなくてもこういう風に二人でいれば満たされるなんて、あなたを知るまで、知らなかったよ」
「……ごめんなさい」
「彼氏とは上手く行ったんだね?」
はっと彼の顔を見る。彼とつないでいる左手の薬指には、本当に些細な指輪をしていた。それは篤志が見栄を張って、小さな小さなダイヤを入れてくれたリングだった。
「結婚したんです。いろいろあって」
「そうか。もう完全に
「……彼と一緒にいれば、離れていても待てるの。おかしいですか? 気のせいなのかしら?」
「いや、きっとそういうのが、恋とか愛の類なんだと思うよ。僕には何かが欠けていたけど」
「愛してくれてたでしょう?」
「……わからない。君に恋焦がれていただけかもしれない、自分勝手に君を欲しがっただけかもしれない」
青い空がガラスの欠片のように目に突き刺さる。眩しくて、目を開けていられない。
薬指に嵌った指輪も気にせず、彼はわたしの手を離そうとしない。
そうするともう、ある意味慣れ親しんだ部屋の、慣れ親しんだ手指にただ眠くなってしまう。ソファの中の姿勢が、どんどん丸まってくる。あの日々を、一緒に過ごしたソファ。
「そのソファ、結婚祝いに贈ろうか?」
「え? ダメですよ、恥ずかしいくらい狭い部屋なんです。このリビングより狭いんじゃないかな?」
「……そうか。いい考えだと思ったんだけど。仕方ないね」
そう言って哲朗さんはまた黙ってしまった。わたしたちの滅茶苦茶な結婚に呆れたのかもしれない。でもこんな風にこの人との時間を持つのは多分、これが最後だ。この人のお荷物にならなくてよかったと、そう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます