第53話 大安吉日

 お母さんによくよく言い聞かせられて、日を選んで区役所に行って婚姻届を提出する。


『大安吉日』


 篤志の骨折もなんとか文字を書ける程度にはよくなって、ふたりで交代してそれぞれの欄を埋めた。

 いま流行りの『ピンクの婚姻届』なんていらなかった。だってそんなものがなくたって、きっとわたしたちは上手くいく。一度離れて、それで戻って。もう二度と離れないことを誓っているから。お互いにお互いが必要だとわかっているから。


 ――わたしはしあわせな花嫁になった。


 もう、失うことを怖がって誰もいない部屋で泣くことはない。篤志はわたしのところに帰ってくるし、わたしはただ待っていればいいんだ。ふたりでいられるしあわせを噛みしめて、待っていれば彼は帰ってくる。いつも通り、息を弾ませて。


 記念の写真を撮る。

 お母さんとふたりで選んだ肩の開いた純白のドレスを着る。髪をアップにして、青い花のブーケを手に持つ。『青』はしあわせの象徴だ。

 生まれてから今までで、もっとも緊張した。笑顔が営業用になっていないか、そればかり気になる。どうせならしあわせいっぱいの気持ちを乗せて笑いたい。気にすれば気にするほど、顔が引き攣る。

 隣でわたし以上に緊張している篤志の気配がして、ふっと力が抜ける。こんなに若くして花婿になるなんて、篤志だって思ってなかっただろう。

 おじさんとおばさん、それから篤志の家族も加わってみんなで写真を撮った。「はい、チーズ」、ピッとデジタル音が鳴る。みんなの緊張がどっとほぐれる。

 そう、これが家族写真だ。わたしの欲しかった家族が一同に集まった。

 篤志がわたしにくれた最高のプレゼントだ。


 三上家主催でホテルのレストランで会食した。お金がもったいないです、と言ったわたしに、できなかった披露宴の代わりね、とお母さんは微笑んだ。

 みんな、お互いの情報交換をして、みんな、しあわせそうに見えた。なるほど、これが『晴れの日』なんだ。

 おばさんは普通なら「ふつつかな……」というところで「やさしい子に育ったと思います。よろしくお願いします」と言って、お父さん、お母さんに頭を下げた。心の奥底から深い感謝の気持ちが込み上げて、このひとたちに育てられてわたしはしあわせだ、と思う。


 花嫁が式の最後に泣くようにわたしも泣いてしまっておばさんに抱きしめられる。おばさんはわたしより少し背が低いのに、わたしをしっかり抱きとめた。そうしておばさんはいつからか、実の母を上回る唯一無二の存在だったんだということを今さら思い知る。なんて親不孝な娘だったんだろう。その娘を笑顔で送り出してくれることに感謝する。


 すっかり夜は涼しくなってきた帰り道を、ふたりで手をつないで同じ家に帰る。緩やかな坂道がこのままずっと続いたらいいのに、と顔がにやけながらつないだ手を大きく振る。

 また飲んじゃってさ、と少し困った顔で篤志は笑った。

 気分が良くて鼻歌を大きな声で歌ってしまう。そう、うれしい時に歌ってしまう癖だ。

「また歌ってる、飲み過ぎだよ。それにしてもすきだよね、その曲」

「篤志は嫌いなの?」

「いや、嫌いもなにも。うちで家事をしてる時だっていつも珠里が歌ってるから覚えちゃうよ。お陰でカラオケに連れて行かれても選曲に困らないけど、嫉妬するよな」

「嫉妬?」

「するよ。四六時中、歌ってるってことは、四六時中、ボーカルの人のことを考えてるのかなって思うじゃん? 俺より歌も上手いし、曲も作ってるしそういう点では勝ちようがないから」

 そうなのかな? 自分に問い合わせる。そういうつもりはない。あの声はすごくすきだけど、確かに四六時中、聴いていたいけど。

「思い浮かべるのはいつも篤志だけだよ」

 つないだ手をぐっと引いて、頬にキスする。篤志は「うわっ」と言ったけど、満更でもなさそうにして、その後、わたしの手を持ち上げてキスをした。篤志の左手の薬指にわたしのものとお揃いの指輪があって、街灯の明かりにきらめいた。


「いつでもそばにいるよ」

 こっちを向いたまま、にやっと彼は笑った。そう、そんな歌詞だ。わたしも同じ気持ちだ。そうして篤志にもそう思っていてほしかった。

 気持ちがしっかり重なっている。

 わたしはうつむいて彼の手をぎゅっと握った。頬が熱い。

 いつの間にか歌の続きを篤志が口ずさんでいた。

 ずっと同じ気持ちのまま、ふたりでいられるだろうか? ううん、そうしたいと強く願う気持ちがわたしたちを夫婦にした。

 もう、この手を二度と離さない。誰になにを言われても離さない。なにもかも上手く行かない人生の中でわたしが唯一手に入れたもの、それが彼だ。


(エピローグに続く)

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