第52話 家族

 その日はまさに真夏の代名詞のような一日で、直射日光の熱は肌を遮るものなく突き刺した。外に出るだけで汗がつうっと首筋に流れる。

 品よく見られたくて、真っ白いさらっとしたやわらかい半袖のブラウスを着て、紺の涼し気なやさしいプリーツスカートを履いた。

 歩き慣れた下り坂は風ひとつなく、色あせかけた日傘があおられずに篤志と手を繋いで駅までの緩やかな細い坂道を下っていく。

 篤志の実家まで、電車を乗り継いで行く。彼もそんなに実家のことについて話さないのでどんな家で彼が育ったのか想像する。そこに着くまでずっと想像して緊張する。

 そしてたどり着いてわたしは思うんだ。「これが彼の育った家なんだ」って。


 畳に置かれたテーブルの上にはグラスに注がれた麦茶が置かれていた。窓を閉めて冷房をかけていても、セミの声が耳の奥まで響く。ひょっとすると庭先のあの大きな木にとまっているのかもしれない。声が近い。

「女の子を連れてくるなんて珍しいと思ったけど結婚なんてねぇ。許せるとは言いにくいけど、せめて学校を卒業して就職してからにしなさいよ。それが常識でしょう? 学生結婚なんて不安定な状態に珠里さんを長く置くのは失礼だし、筋を通さないと。あんたがのうのうと学校に行ってる間、珠里さんはひとりで働くの? 結婚したらきれい事は通用しないの。愛があってもお金が無いと結婚生活は成り立たないの。それくらいわかるでしょう?」

 自分の実家に来ても篤志は固まってしまった。


 セミの声は一度止んで、すぐにまた別の場所から聞こえ始めた。

「そのことについてはふたりで話して結論が出てるから。俺たちは『結婚』というを選ぶことにしたんだ。お金のこともよく話し合った。大学のことも」

「それがきれい事なの。学校が忙しくてバイトする暇もないんじゃ生活できないじゃない。あんた、いつまで経っても子供の頃と同じね。一度こうって決めたら動かない。頑固なんだから。誰に似たのかしら」

 喉が、緊張でやけに乾く。麦茶に手を出す余裕がない。

「ねえ、珠里さんだって篤志が安定した職に就いてる方が安心でしょう? この子がまだ進学を希望してるってことを知ってて承諾したの?」

 急に話を振られて動揺する。篤志の顔をそっとうかがうと、彼もこっちを見ていた。


「あの……。わたしたち、貯金があるんです。それでしばらくやって行こうって決めていて。篤志さんが研究にどれくらい打ち込んでいるかはわかっているつもりです。結婚は形だと思うし、急ぐ必要はないとも思うんですけど篤志さんはわたしのために……」

 喉に何かが詰まったように、上手く言葉がつながらない。あわてて息を吸う。

「話したと思うけど珠里は両親も兄弟もいないんだ。だから形だけでも早く本当の家族になりたい」

 彼の言葉が胸の奥深くまで染みる。


「篤志」

 不意に、ずっと話を聞いていた篤志のお父さんが口を開いた。温和な声だった。

「じゃあ珠里さんのこれからの人生に責任が持てるんだね。ひとの人生は自分のより、ずっと重いぞ」

「はい」

 間髪入れずに篤志は答えた。お説教を受ける時の子供のように、背筋がぴんと伸びていた。

「じゃあ好きにしなさい。お前も学生とはいえ、もう子供じゃないんだし、責任を取ることの意味はわかるんだろう。うちからも学生のうちは今まで通りのお金を出そう。珠里さんだけ働かせるというわけにもいかないし、お前のワガママの始末は親の責任だ」

「ありがとう。そうしてもらえると珠里の負担が減ると思う。ワガママを許してくれて、父さん、感謝してるよ」

 お父さんはわたしを見て微笑んだ。「お父さんは甘いわ」とお母さんが大袈裟にため息をついた。お父さんの気持ちと、お母さんの気持ちはつながっているんだろう。これが『結婚』ということなんだろうな、と思う。

 わたしたちもお互いを信じてつながっていけるかな? そうありたい。


「さあ、話は済んだわね。珠里さんのために美味しいお寿司をとったのよ。すきかしら?」

 わたしは「ありがとうございます」と言った。

「学生結婚だから式は挙げないけど、写真くらい撮るでしょう? キレイなお嫁さんでドレスの選びがいがあるわね。一緒に選んでもいいかしら?」

 その言葉はキラキラしていた。一瞬で緊張がほぐれてわたしは心からこう言った。

「はい、お母さん」と。


 夜になると別棟に住んでいるお兄さんと、お兄さんの奥さんがやって来てわたしの顔を見て行った。

「篤志、お前こんな美人、連れてくるなんてやるなぁ。珠里さん、こいつ、頑固なところがあるけどやさしいよ。ワガママ言ってたまには困らせてあげなよ」

 もう、余計なこと言って、とお姉さんがお兄さんを肘で小突いた。

「ごめんなさいね、変なこと言って。わたしもキレイな妹ができてうれしいわ。わたしには弟しかいないのよ。仲良くしてね」と言われて、「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 みんな笑顔だった。篤志の温かさの素はここで養われたんだと思うと、来てよかったなぁとしみじみ感じた。


「ごめん、うちの家族、うるさいでしょう? 珠里のおばさんのところと違って田舎だし、ビックリしなかった?」

 申し訳なさそうに篤志は言った。わたしたちは昼間話をした和室に布団を敷いてもらい、別々の布団に入っていた。

「ううん、すごくうれしいの。ねぇ、すごいんだよ。わたしには篤志のご両親とお兄さん夫婦、それから篤志、五人の家族がいっぺんに増えるの。わたしが失ったのは両親ふたりでしょう? 差し引きしたら失った分よりずっと多いの。ここに来てよかったなぁって、本当に思うの」


 布団に入ったまま、天井に向かってチョキとパーを作って見せた。篤志はそれを黙って眺めていた。薄闇にぼんやり、彼の顔が浮かぶ。疲れているのかもしれない。

「珠里がそう言ってくれるならよかったよ。みんな、珠里が来て喜んでるしね」

 ふふっと笑う。

 篤志もやさしく笑う。

 見つめあってその後、篤志の布団にごそごそと入った。

「眠くなるまでこっちにいてもいい?」

「いいよ」

 でも、眠りは急にやってきてそんなわたしの髪を篤志はずっと撫でていた。彼の心音を聞きながら眠りに落ちていく。

 心地よい疲労感が背中をそっと押してくれる。

「ありがとう、篤志……」

「いいんだよ。おやすみ」

 わたしたちの家族全員に認められて、わたしはこの家の新しい家族になる。なんて素敵なんだろう。ここに来るまでは不安しかなかったのに……。

 おやすみ、とつぶやいて、眠りに身を任せた。


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