第51話 花びら

 おじさんとおばさんは滅多にわたしを快く迎えてくれた。事前にプロポーズされたことは話してあった。けど、詳細は言ってなかった。

 反対されることはないとわかっていても、少しだけ怖かった。わたしの母代わりであるおばさんは、わたしのしあわせをきっと願ってくれている。あの事故の後からずっと。


「珠里、よく来たわね!」

 おばさんはわたしをハグした。

 そう、このひとの愛情表現はいつでもこう。時と場合を選ばずに抱きしめてくれる。よく顔を見せて、と言われる。そして、少し痩せたんじゃないの、と悲しそうな顔をした。

 その隣でおじさんが篤志を家の中に促した。

「おばさん、あの、紹介したいひとをね」

「ああ、そうよね。どうぞ上がって。あら、お土産なんかいいのに」


 わたしが人生の大半を過ごしたその家はいつでも暖かくわたしを捕らえようとした。わたしもこの家に閉じ込められたくなる。少女時代のすべてが詰まった家は、わたしを真綿のように包んだ。

 アイボリーの壁紙に、ドライフラワー。アンティークレースのカーテンがかかった出窓に、庭にはやわらかい葉のライラック。学校から帰るとちょっとしたお菓子と香りのいい紅茶をいれてくれる。

 息苦しかった。暖かくて居心地のいいその空間に、本当は自分の居場所なんかない。楽しければ楽しいほど、よりしあわせな出来事があればあるほど、ひとりの部屋に戻ると体の芯から凍えるような気がした。

 ――どうしてわたし、この家の子じゃないんだろう?

 その迷宮のような質問に答えを見つけられず家を出た。


「三上くんて、思ってたのと違うわね」

 おばさんはにこりと微笑んで、ウェッジウッドのティーカップ片手にそう言った。

「違うのよ、反対しているわけじゃなくて珠里は年上のひとを連れてくるんだと思ってたってこと。支えてくれるひとをいつか連れてくるのかと思ってたの。年下のあなたを連れてくるなんて、珠里はしっかり成長したのね」

 篤志はなんと答えたらいいのか困っているように見えた。そもそも彼はすごく緊張していたし、答えにくい質問に口をつぐんだ。


「篤志は……彼は確かに年下だけど、わたしを支えてくれてるよ。おばさんの思ってた通りだと思うけど」

「確かに僕は珠里さんより年下で、頼りなく見えるかもしれません。実際、まだまだ学生ですから。でも、もしも珠里さんに困ったことが起きた時は学校は潔くあきらめて、真っ先に珠里さんを支えたいと思っています。どうか、結婚を許してください」

 おばさんが隣にいたおじさんの目をのぞくと、おじさんはやさしくうなずいた。

「三上くん、反対はしていないのよ。むしろ珠里の結婚を喜んでいるの。夫婦というのは家族の最小単位なの。この子の本当の家族になってあげてくれない? 実の子だと思って育てたんだけど、この子はずっと遠慮する子で。どうか今度はあなたがしあわせにしてあげてくれないかしら。きっとあなたには遠慮せずにいられるんだろうから。もちろんあなたが学生だということは気にならないと言ったら嘘になるけど、……珠里の選択を信じるわ」

 篤志の目はおばさんの目を、まっすぐに深く見つめていた。おばさんも篤志をやさしく見つめ返した。


「あれだね。妻の家に結婚の申し込みに行った時のことを思い出すね」

 おじさんは照れた顔をして目じりを下げた。おばさんがおじさんの肩をぽんと叩いて笑った。部屋の中の空気がふわっと和らいで、肌に刺さるようなきつい日差しが窓越しにやわらかく差し込んだ。

 よろしくお願いします、と篤志は頭を下げた。ああ、わたしのためにこの人は頭を下げてくれるんだなぁと今さらそう思うと、なんだかこそばゆくて顔を上げていられなかった。頭を下げたまま、こそばゆくて顔が緩んだ。


 電車はいつもと違って揺りかごのようにわたしたちを家路に運んだ。わたしは隣に座った篤志の肩にもたれかかって『幸福』という気持ちを噛みしめていた。

「疲れたの?」

 そう言った彼の声も緊張から解き放たれて安心したようだった。耳元にささやかれる、程よく低いその声にうっとりする。気持ちのいい気怠さに包まれる。

「そうだね。反対されなくてよかった。そんなことはないってわかってても緊張しちゃった」

「俺もだよ」

「……しあわせにしてくれるんだよね?」

「するよ、約束したじゃん」

「そうだね」

 わたしの右手と折れていない彼の左手はつながれていて、その細長い指をそっと見た。それだけでしあわせな気持ちになることは篤志には黙っていよう。


 篤志と一緒にいるとこういう小さなしあわせがたくさんこぼれ落ちてきて、ひらひらと降ってくる花びらを受け止めるように心の中の手のひらを広げる。

「一緒にいるだけでしあわせ」って陳腐な言葉だと思っていたけど、本当にそんなことがこの世にはあるんだなぁって右側に存在感のある温もりを感じる。冷房の効いた電車の中、その体温はわたしを温めた。


「夕飯、なにがいいかな?」

「五目そばでも食べに行く?」

「んー、美味しそう。でも外食って贅沢じゃないかな?」

「バカだな、お祝いだよ」

「お祝い……? 五目そばで?」

 五目そばを食べて、たまには紹興酒でも飲んで? おかしくて笑ってしまう。わたしたちのお祝いにとても相応しいから。なんだよ笑うなよ、と篤志が恥ずかしそうにボソッと言った。ますますおかしくて笑いが止まらない。

 いいじゃない、そんな日があったって。笑いが止まらない日があるなんて。

 だいすき、と彼の手をぎゅっと握った。

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