第19話 いまはどうにもできない

 休憩室で休んでいなさいと言われて、とりあえずそこに向かう。時間のずれた休憩室に入ってくるひとはいなくて、体を横にしてはじめて、自分の体の重さに気がつく。

 そう言えば、朝も悪い夢を見て汗をかいたっけ。あれは単に体調が悪かったせいなのかもしれない。どちらにしても難しいことはもう考えられなくて、横たわっている。

 ああ、また篤志に心配かけちゃう……。言う通りにしないからだよって、やさしく叱られちゃう。そんな時はどっちが歳上かなんて全然、関係がなくて、わたしは「はぁい」なんて甘ったれた返事をする。

 そうだ、篤志はなにかあったら連絡してくるように言ったっけ。


「岩崎さん、出られる?」

「……はい」

 田島さんがあわてた様子で休憩室に入ってきた。まったくこの子は、なんて言われる。学校を休める特別な日のようだなぁなんてのんきに考える。

「岩崎さん」

 お店に戻るとなぜか二ノ宮さんがいた。どうしてそんなことになっているのか理解が追いつかなくて、戸惑う。

「じゃあ、申し訳ないんだけど岩崎さんのこと、よろしくお願いします。本当に二ノ宮さんが気がついてくださってよかったわぁ」

「たまたま顔を見たら具合が悪そうだったので。じゃあ、きちんと送りますので」


 二ノ宮さんはひとりで歩けるかと聞いてきた。大丈夫です、と答えた。世界は固定された大地を失ってしまったかのようだった。もしくは、空が歪んでいる。

「ほら、嫌かもしれないですけど捕まってくださいね。あまり手こずらせるとお姫様抱っこですから」

「それは困ります……」

「じゃあ、しっかり捕まって」

 仕方なく、二ノ宮さんのスーツの腕に捕まる。確かに世界の揺れはだいぶましになった。このひとにこんなにお世話になっていいのかしら、という考えが降ってわいたけれど、ほかに頼れるひとはここにはいなかった。


 昨日、ふたりで出たビルの入り口までたどり着くと太陽がきらりと目に刺さった。

「家はどこですか?」

 あ、どこかで聞いたセリフだ。耳にすんなり滑り込む。

「岩崎さん、家がわからないと送れませんよ」

 そう、そんなふうに篤志もあの時、言ってくれて、そしてわたしはあの家の子になった。

「タクシー呼びますから。いいですか、道順、教えてください」

「あ、はい」

 楽しい追想は終わる。何度でも噛みしめたい思い出は打ち切られた。

 今日は家に帰りたくない、では困るんだから、しっかりしなくちゃと思う。家に帰ろう。あんなに意地悪そうに見える家だけど、実はわたしの帰りを待っていてくれることを知っている。


 タクシーの車内は静かだった。振動も少ない中、わたしは後部座席でシートベルトをつけてまるで人形のように座らされていた。

「あの」

 わたしは家の近くのコンビニを説明した。運転手さんは快く返事をくれた。

 隣に座った二ノ宮さんは難しい顔をしている。いつもとは全然違う顔をして、真っ直ぐ、前だけを見ていた。……怒っているのかもしれない。でも何に?

「あの、お仕事中なのにありがとうございます」

「いや、時間は調整できたからいいんですよ。気にしないでください」

「……あの、怒ってますか?」

 ゆっくり、彼はわたしの方を向いた。言葉より先に、瞳が語ったような気がした。


「怒ってますよ、自分に。昨日、あなたの具合はもう悪くなってきていただろうにどうして気がつかなかったんだろうって」

「でも、わたし本人が気づいてなかったんですから」

「ずっと見てるんですよ。小さなことだって見落とさないように。僕は昨日、あなたに無理をさせてしまった。意地悪でした。いつも自分の都合で話を進めて。もっとあなたに寄り添わなければいけないと反省しています」

 そう言った顔は真剣で、わたしなんかのために反省する必要はないのに、と思う。強引に誘われたのは確かだけれど、それと体調を崩したのは別の話だ。篤志の言うように、たぶん、気づかないところで無理をしてしまったんだろう。それだけだ。


「体が弱いんだって聞きました」

「ええ、まあ。恥ずかしいんですが。なのでこれくらいのことで驚くことはないんです。心配しないでください」

「彼氏は知ってる?」

「……二年も暮らしてるので。今朝も疲れてるんじゃないかって言われたところだったんです。無理をしたわたしがバカで」

「ちゃんと、彼に報告してくださいね。僕にはいまはどうにもできないから」

 はぁ、とかそんな間の抜けた返事をしたのだと思う。タクシーは指定したところに着いて、家の近くに来たことに安堵する。


「タクシー代はいいです。代わりにまたお昼、つき合ってください。今度はきちんと食べ終わるまで席にいてください」

 お財布に手を伸ばしたところで言われてしまい、情けなさでいっぱいになる。なにひとつ、このひとには勝てそうにない。

「じゃあ、お仕事がんばってください」

 ドアが閉まる瞬間、声をかけてお辞儀をする。次に目を上げると、彼は傷ついた顔をしていた。その理由がまるでわからなくてこちらも動揺する。

タクシーはゆっくり走り出し、わたしを残していった。

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