第20話 愛してたのに

 血相を変えて篤志は夕暮れ、いつもよりずっと早い時間に帰ってきた。

「だから朝、無理しないって約束したじゃないか」

「……ごめん」

 篤志はドラッグストアで解熱剤とイオン飲料、氷枕を買ってきた。そうして不器用なやり方で氷枕にタオルを巻いてくれた。

「ねぇ、体にまで影響が出るっていうのはさ、相当、無理してるってことじゃないの? 仕事、辞めたっていいんだよ。まだ珠里には休むことが必要なんだよ、きっと。少しずつ治そうって決めてるでしょう?」

「……無理をしてるつもりはないんだけど。しばらくシフトずらしてもらえるか聞いてみる」

「そうしよう。珠里が具合悪くなると心配なんだ。できることはなんでもするからさ、珠里も少しは休んで」

「ごめんなさい」

 もういいんだよ、と言って篤志は添い寝してくれる。わたしが眠ってしまうまで髪を撫でてくれるつもりだ。頭の芯から熱が引いていく感じがして、昼間よりずっと楽になる。


「自分からなにかあったらラインしてって言ってるのに、倒れた時にすぐに帰れなくてごめん。こんなに具合悪いと思わなくてさ」 

 だってそんなに具合が悪いようなことをわたしは書かなかった。心配させたくなかった。

 自業自得なのはわたしだ。

 また篤志の大切な時間を食いつぶしてしまった。こんなこと、したいわけじゃないのに。

 わたしに人生のすばらしい一面を教えてくれたのは篤志だ。だからわたしは彼にすばらしい人生を贈りたい。その最低条件が、彼の大切な研究の邪魔をしないことなのに。

 今日だって、帰ってきてしまってよかったのか、怖くてとても聞けない。

 わたしのために無理してほしくないな、と思う。わたしがすきなことを見つけられなかった分、篤志にはすきなことをしてほしい。邪魔はしたくない。


「どうしたの、顔ばっかり見て。寝られない?」

「ううん、顔が見たかったの。触っていい?」

「いつも勝手に触るじゃん。いまさらだよ」

 はは、と恥ずかしそうに彼は笑った。わたしはそっと彼の顔に触れる。ヒゲの剃り残しがある。研究が忙しくなると、そういうことが増える。やっぱりいま、学校は忙しいんだ。

「すき」

「すきだよ。大切にしたいんだ、珠里を。どこにも行かないでここにずっといてよ」

「行くとこないよ」

 おでこに軽くキスされる。そのまま見つめ合って唇と唇が触れる前にふさぐ。だって風邪だったらうつってしまう。

「うつってもいいよ」

「良くない。わたしは良くないの。ほら、看病するひとがいなくなっちゃうし」

「それは確かに」


 キスの分、ぎゅうっといつもより強く抱きしめられる。その余韻に浸りたいのに、しがみついたスーツの袖がちらつく。……あのひとにはうつらなかったかしら? わたしはそれを忘れるように篤志の胸に強く頬を押しつけた。

 助けてくれたのが篤志だったら良かったのに。そう思うことがすでにワガママだ。篤志は忙しい。足を引っ張ったらいけない。


 ふんわりといい匂いが鼻先をくすぐって、ぼんやり目が覚める。氷枕はすっかり溶けてしまってぺしゃんこだったけれど、寝る前より意識がしっかりしている。わたしに気がついて顔を上げた篤志に、その場から飛び込む。

「うわっ、また危ないなぁ。どうして珠里はそう衝動的なの? どこかにぶつけたら危ないでしょう?」

 えへへ、と笑って誤魔化す。

 篤志の膝の上には何かの化学式のようなものが書かれたノートが置かれていて、破らなかったかと心配になる。隅の方にしわが寄ってしまった。

「ごめんなさい。勉強してたんだね」

「ううん、見直しだから気にしなくていいよ。それよりさ、お粥作ってみたから食べてみて」

「すごーい、初お粥。いつもはレトルトだったのに」

「気が向いたんだよ」


 こんな夜は闇夜もやさしくわたしを包む。今夜は新月なのか、いつも以上に闇が深い。水族館を思い浮かべる。

「美味しい」

「よかった。味つけしなくていいのか迷ったんだよ。クックパッド見て作ったんだけどさ」

「梅干しがあれば十分なんだよ」

「じゃあ今日は俺も同じのでいいや」

「ダメだよ、ちゃんと食べなくちゃ。わたし、なんか……」

 ぐいっと手を引かれて、崩したバランスで彼に背中からダイブした。いつも抱きつくのはわたしからだったので、不思議な気分になる。

「珠里は今日はなにも作らないんだよ。食べたら寝る。それが仕事でしょう? もっと心配させたい?」

「……させたくない」

「じゃあ食べて」


 篤志の作ったお粥はやさしい味がした。ただふやかしただけのご飯なのに、誰でもすぐにできる料理なのにそこには目に見えないなにかが詰まっていた。それがわたしをいっそう切なくさせる。

「ごめんね……」

「これに懲りたら無理はしないこと。わかった? 明日は一緒にいるからさ」

「学校は?」

「たまには熱も出るでしょう」

「ダメだよ、学校に行ってよ」


「俺が珠里と一緒にいたいんだよ、それじゃダメ?」


 今日に限って口が上手い。篤志がそうっと近づいてきて、結局わたしたちはキスをした。

 本当にうつってしまっても構わないというように、何度も。そう言えば最近、こんなに激しく求められたことはなかったかもしれない。ふたりとも忙しくて、夜はさっさと更けていったから。

「……わたしの胸、顔の割に小さくない?」

「どうかな。どうしたの、いきなり」

 人並みよりこぶりなわたしの胸はいまは彼の手の中にあった。胸の大きさが女の善し悪しをきめるかわからないけど、ときどき、小さいんじゃないかって気になってしまう。男の人は大きい方がすきなんじゃないかって。

「そういう歌があるの」

「back number?」

「違う……ミスチル」

 火照った体から押さえ込まれていたすべての熱が放たれていくように思える。熱い汗が、体中を濡らしていく。限界だった。


「ああ、思い出した。『Over』だ。風邪がうつるといけないからキスはしないってやつだね」

「そうなんだけど、そこからふたりの仲は壊れていくっていうさみしい曲だよ」

「『愛してたのに』ってやつだ。過去形だよ。俺はいつも現在進行形だから。胸だって、俺にはちょうどいいんだからそれでいいでしょう? 確かに珠里の顔は肉感的だからそれに比例してるかはわかんないけど」

 余計なこと言わないでよ、と怒ったふりをする。

 そうだね、そうだよね。

 今日、キスをしておいてよかった。じゃなければここが未来への悪い起点になってしまったかもしれない。

 篤志のやさしさに溺れていたいのに、何も考えずに愛されることができないくらいにはわたしは大人になっていた。

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