第21話 すごく重い

 目覚めるとすぐ横に寝息を立てる篤志の顔が見える。至福の時間だ。幼い寝顔をじっと見つめる。まだまだ『男の子』だ。好きなことばかりしているせいもあるかもしれない。ままならないことばかりの社会に、まだ汚されていない。


 熱はすっかり引いていた。

 でも約束は約束なので、エリアマネージャーに直接電話して事情を説明する。「無理しなくていいよ」とここでも言われて、こんなんじゃここでもお払い箱になってしまうかもしれないと、漠然とした不安にかられる。

「起きたなら起こせばいいのに。あ、俺も連絡しておこう。今日は嫌がっても病院に行くから。予約外で診てもらえるか聞いてみないと」

 彼はわたしの手の中のスマホを見てそう言った。

「もしもし、……違うよ、嫁さんじゃないよ。茶化すなよ。うん、ああそう。悪いな、よろしく」

「本当に学校、休んじゃったの?」

「有言実行。どうしたって病院に連れて行くよ。それが俺の仕事だよ」

 篤志は続いて病院にかけた。どうやら診てもらえるらしい。でも先生がわたしの中にあるすべての困りを解決してくれるようにはとても思えなかった。

 気がつけば心に抱えているものはずいぶん大きな塊になっていた。


 先生は穏やかな人だ。白衣がしっくりくる柔和な笑顔がメガネの奥に見える。「どうしました?」とやわらかい声音で聞いてくれる。予約外だったのでもう病院には患者さんがいなかった。これが職場なら『蛍の光』の時間になっているところだ。

 篤志には待合室で待っていてもらう。

 ここに来ればいつも先生とわたしの一対一だ。

「わたし」

 喉の奥に言葉が張りついて上手く声にならない。

「ゆっくりで大丈夫ですよ」

 なにから話したらいいんだろう? 頭の中にいろいろな出来事が渦巻く。

「わたし、求婚されたんです。お店のお客さんに」

「それはすごいことですね」

「はい、それで戸惑ってしまって」

 先生はパソコン上のカルテに何かを書き込む。


「よく知ってるひと?」

「いいえ、全然。でも少しずつ知ってほしいって言われて、何度か食事をして。それをに言えなくて。……悪いひとじゃないと思うんです。むしろやさしい」

「結婚を申し込んでいるくらいならやさしくて当然な気もしますが?」

 確かにそうだ。言われるまで気がつかなかった。結局、なんだかんだ言ってわたしは浮かれていたのかもしれない。誰かに欲しがられること自体が人生の中で数少ないことだから。

「それで岩崎さんとしては結婚を考えてしまっているということ?」

 ぐっと言葉に詰まる。そこが問題点だった。わたしがパンクしてしまったのも、きっとそのせいだ。そうじゃなければこんなに気持ちが乱れたりしない。


「先生、わたし」

「無理して話さなくていいですよ。話したくなければ話さなくても」

「わたし、の人生の重荷じゃないでしょうか?」

 体の正面をパソコンに向けていた先生のイスがくるっと回って、対峙する。先生はわたしの目を真っ直ぐに見た。

「岩崎さん、彼、やさしいですよね。今日もここに連れてきてくれたんでしょう? 彼のやさしさを疑いますか?」

「いえ、そういうわけでは」

「なにが大切なのか、ゆっくり考えましょう。あなたはいま、早く結論を出そうと急ぎすぎている。仕事に差し支えるかと思って薬の処方を変えていたんですけど、少し変えますね。とりあえず落ち着きましょう。結婚というのは大きなことです。簡単に答えが出るものではないと思いますよ。いいですか、安易に片付けてはいけませんよ。あくまでゆっくり考えましょう」

 それじゃあまた、と先生は言って、一礼して診察室を出た。次の予約はスパンが短くなって二週間後だ。


「遅かったね」

「うん、診察、最後だったからゆっくり話せたの」

「そっか。少しは落ち着いた? なんとなく顔色が良くなった気がするよ」

 前に下がってきたわたしの髪を、篤志の指先が耳にかけてくれる。その細い指はまだ苦労を知らない。知らなくていい。この人を汚したくない。キレイなままでいてほしい。

 ことん、と肩に頭を乗せる。彼の手がぽんとわたしの頭を叩く。やさしく、労わるように。

 会計に呼ばれる。処方箋をもらって隣の薬局に行く。そこで薬の説明を受けて、いままでと変わった薬についての説明を受ける。

 せっかく減っていた薬がまた増えた。


 ああ、いつまでこんなことが続くんだろう。鬱病が心の風邪なのだとしたら、ずいぶんこじらせた長い風邪だ。

 "風邪がうつるといけないから"。

 ほら、離れた方がいいのかもしれない。こんなに長く迷惑をかけて、やさしさをもらう資格がない。

「悪いこと考えてるでしょう?」

 夕方にしては明るい舗道で篤志はわたしの顔をのぞき込む。その視線を受け止めきれない。わたしより年下なくせに、どうしてこういう時には。

「最近、難しい顔してることが多いよ。話せないことなの? 話せないならそれでもいいよ、先生には話せたの?」

「……うん、話してきたよ」

「そっか。愛してるからって心の全部がつながってるわけじゃないからなぁ」

 すとん、と道端で抱きしめられる。


「篤志、ここ道の真ん中」

「珠里はこういうところで平気でキスしたがるじゃないか」

 そうかもしれないけど、と言った言葉はかき消されて唇が重なった。やわらかい感触。彼の全部だ。

「珠里の気持ちがよくわかった気がする。愛してるからだ。道の真ん中でもなんでも、気持ちは変わらないから」

 再び唇は塞がれて、篤志が顎をめいっぱい上にあげる。犬の散歩をしていたひとがわたしたちを避けて歩く。篤志の背中に腕を回して、強く抱きしめる。

「愛してるよ。俺は全部珠里のものだから、珠里は全部俺のものでいて」

 耳元でささやかれて、ぽーっとしてしまう。引いていた熱がまた戻って来るような錯覚をおぼえる。

「全部?」

「全部。珠里がいままで失ってきたものを埋められるような自分になれるようにがんばるよ。だからさ」

 ゆっくり彼の体から離れる。

 そうじゃない。それじゃわたしばかりが重くなってしまう。ふたりにとってそれが一番の解決策なわけじゃないじゃない。


「篤志、篤志の人生だもん、自分の取り分があっていいんだよ。愛ってそういうものじゃない? やっぱりどっちかが、どっちかのためになっちゃうだけなのはおかしいよ。わたしにも尽くさせてくれないとさ」

「尽くしてもらってるよ。いてくれるだけで十分だよ。忘れたの? 先にすきになったのは俺なのに」

「わたしの存在って重いんだね」

「そうだよ、珠里は俺にとってすごく重いんだ。手の中から落とさないようにしないとね」

 にっ、と彼は笑ったけれどわたしはとても笑えなかった。彼の目を見つめ返すことしかできなかった。

 先生、手遅れになったらダメだと思うの。わたしの心は弱いから、手放せなくなる前に……。

 夕暮れがようやく訪れたバス停で、離れることなくふたりの手はつながれたままだった。その手は決して離れることがないように見えた。

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