第22話 その四角い紙

 病院に行った翌日、念の為と仕事を休ませられる。さすがに篤志は学校に行って、夜は九時頃、帰ってきてくれた。

「おかえりなさい」

「ちゃんとのんびりしてた?」

「うん、寝ちゃってた」

「やっぱり疲れてたんだよ。仕事をして気持ちが張りつめてたんだよ。そういう時はさ、バーンってなっちゃう前に休むんだよ。その方が被害は最小限で済むんだよ」

「……はい、気をつけます」

 元気だったら五目そば、食べに行けたのにな、と篤志は笑った。確かにいまはそれほど食欲がなくて完食できないかもしれない……と思うと、お腹がなった。


 篤志は笑って熱湯の中にスパゲッティを投げ入れた。

「パスタで許してくれる? 五目そばはまた今度、一緒に行こう」

「うん。ありがとう」

「なにもお礼を言われることじゃないよ。バカだな、泣いてるの? いいんだよ、俺も五目そば食べたいんだもん。ずっと食べてない」

「うん。早く元気になるよ」

「ゆっくりでいいよ、ゆっくり良くなって五目そばも食べて。そうしたらもっと良くなるよ」

 すっかり胸がいっぱいになってしまって、パスタも五目そばもとても入りそうになかった。こんがらがってしまった糸を、端から篤志はほぐそうとしてくれている。心の中いっぱいにこごった糸を。


「先日は大変、失礼しました」

 深く、お辞儀をする。

 よく知らないひとにあんなに良くしてもらう権利はない。

「心配しましたよ。一昨日も昨日も休まれたでしょう?」

「ごめんなさい。熱が引いて、それから病院に行ったりして」

「いいんですよ。心配は僕が勝手にしたことで、あなたを困らせるためにしたわけじゃないですから」

 手に持ったペットボトルを持て余し気味に二ノ宮さんは話した。気のせいかもしれないけど、今日はいつもの強気なところがない。わたしを見つめる目もやさしい。


「あの、お礼を」

「してくれるんですか? 今度のお休みはいつ?」

「……明後日なんですけど」

「土曜日ですね? いいのかな、休日だけど。彼が家にいたりしないの?」

「土曜日はいないんです」

「そう。ここで待ち合わせは気まずいですよね。駅前はどうですか? この間、送った感じだと徒歩ならそれほど遠くなかったような。僕の家は駅前なのでなんだか申し訳ないけど」

「いえ、いつも駅前を通りますから」

 ああ、そうだ、と言って彼は取り出した四角い白い紙に走り書きをした。

「何かあったらここにいつでも連絡をください。どうしても仕事で出られない時間があるかもしれませんが、そういう時は留守電を残してくれればコールバックしますから」

 十一時に約束をして、彼は会社に戻って行った。


 平塚さんがすかさずやって来る。

「毎日心配して岩崎さんの具合、聞きに来てたんだよ。いいひとじゃないの。岩崎さんのことを真っ直ぐに見てくれて。ああ、うらやましい。若いっていいわねぇ」

 若いからいいというわけじゃないんじゃないかな? 平塚さんは独身だった。だからこそ浮いた噂が楽しいのかもしれない。

 わたしは楽しくない。

 真面目な顔をして思い詰めたように見つめられるのはこちらも覚悟が必要になる。彼を受け止められるかわからない。

『土曜日の十一時』に、忘れないように心にメモをする。


 久しぶりに袋いっぱいの買い物をして家路に着く。当然のように篤志は帰っていない。帰ってきた時のために今日は美味しいものを作ろうと思っていた。どうせ時間はたっぷりある。

 ふぅ、と一息ついて買い物袋を床に置く。

 久しぶりに外に出て疲れた。こうして心と体の相関関係が身に染みてわかる。わたしの体は心に引きずられるように生きている。


 軽く茹でたキャベツの葉で、ハンバーグの要領で作ったものをくるくる巻く。それをいくつか作って、鍋いっぱいに押し込む。空いているところにニンジンや玉ねぎを入れてスープの素と水を入れて火にかける。ガラス製の鍋ぶたから蒸気が滴になって落ちるのを見ている。

 あとは放っておけばいい。

 ずるずるっとキッチンに座り込む。少しくらい座り込んでいたって問題はない。篤志はどうせすぐには帰ってこない。

 ふつうの家庭なら、夜の九時を回っているのにロールキャベツを作ったりしない。夕飯は八時までに済ませるものだろう。

 でも篤志が帰ってくるのはわたしよりいつでも遅くて、その代わり、急いで帰ってきてくれているということはよくわかっている。わかってはいるけれど……時間を持て余してしまう。夜中になるのは承知で煮込み料理でも作るのがちょうどいいんだ。


 ことこととお鍋が立てる音は小さなしあわせの音で、わたしになんの心配もいらないよ、と教えてくれる。その音の中でまどろみそうになり、ガラスぶたの中身を気にする。

 どれだけぼんやりしていたんだろう、もうすっかりいい感じに煮えていた。ふたを開けて、塩こしょうで味を調える。


 十一時。

 そろそろ帰ってくるだろう。その前にシャワーを浴びてしまった方がいいかもしれない。明日はまた仕事だし、まだ本調子ではない。そうそう夜更かしはできない。

 十一時半を過ぎて、髪の毛を拭いていてもまだ帰らない。鍋の中身は冷めてしまう。髪を乾かして、時間を持て余して布団に転がる。

 お腹が空いたような気がしたけれど、どんなご馳走も篤志がいなければ意味がない。

 ……。

 日付が変わった。ラインの既読はつかない。学校にいるんだろうと思っても、不安が心を占める。

 この間、休んだ分、忙しいのかもしれない。

 それとも今日は友だちと飲みに行くって言ってたかもしれない。

 そんなことはない。休前日でもないのに飲みに行ったりしない。篤志は家でもほとんど飲まない。


 時間ばかりが過ぎていく。友だちはこの薄い布団だけだ。明かりをつけた部屋の中で暗闇に浸食されないように身をすくめる。どんどん怖くなる。帰ってこないわけはない。だってこの部屋の家主は篤志なんだし、寄生しているわたしを置いて出て行ったりしない。仮に出て行くとしたらそれはわたしの方だ。

 薬を飲んでずいぶん経ったのに、気持ちが落ち着かない。しっかりしなくちゃ。いつかは帰ってくるから。たとえば眠ってしまって起きれば、そこに篤志はいて、おはようって微笑む。いつもと変わらず、おはようって。


 ――不意にあの四角い紙を思い出す。

 確か、カバンの中に入れたはず。

 それで何かが変わってしまうとはその時思わなかった。


『二ノ宮です』

『岩崎です……夜分遅く、すみません』


 夜分も夜分だ。もうすぐ二時だ。

 でも、電話の向こうの二ノ宮さんの空気がふわっと和らぐのを感じる。


『どうかしましたか?』

『あの……怖くて』

『どうしたらいいですか?』

『あの……』


 どうしてほしいんだろう?

 どうしてほしくて電話したんだろう?


『あの……あの、声を聞かせてください』

『なにかをしゃべればいいのかな? でも僕が話し下手だってことはあなたがよく知っているでしょう』

『そうじゃなくて、なにか、なんでもいいので声を聞かせて――』


 そう、このひとの声は落ち着く。深くて重い声。いままでどうして気がつかなかったんだろう? 心の中になにかを落として行く。


『困ったな、なにを話そうかな。そういうのは考えた……』


 その声とは別のところから確かな音が近づいてくる。


『ごめんなさい。もう大丈夫です。失礼しました』


 終話ボタンを急いでタップしてスマホを放り投げる。ぽすっと布団にそれが落ちる音を無視してドアに走る。この部屋にひとつしかないそのドアは、外と部屋の内側を薄く隔てている。そこをいきなり開けて、たとえばそれで強盗に殴られてもいい。刺されることになってもいい。一パーセントでもそこに恋しいひとがいる確率があるのなら。

「珠里、ごめん」

 ドアがききぃっと耳障りな音を立てて閉まってしまう前に、わたしはもう篤志の腕の中にいた。片手は背中に、もう一方の手は後ろ頭に回されていた。

「連絡も入れないで遅くなってごめん。不安だったでしょう?」

 首を小さく横に振る。それは明らかな嘘だということはお互いにわかっていて、まだ靴も脱がずに篤志はその場に座り込んだ。


「あー、もうなにやってんのかな? 自分で『しよう』って決めたことができてない」

 どうしたらいいのかわからずに、とりあえず一緒にしゃがむ。そうしてやわらかいその少し伸びた髪に触れる。

「なにを?」

「珠里を大切にするって決めたのに、全然、できてないよ。情けない。連絡ひとつ入れれば良かったのに没頭しちゃって情けない。……嫌いになった?」

「ならない。なるわけないじゃん。わたしはいつだって篤志のものだし、それ以外の何者でもないもの」

 彼は頭を上げてわたしを見た。そして、小さな声で「ごめんな」と言った。その一言は今日のことだけじゃなくていろんなことを含んでいるような気がして、怖くなってそれ以上なにも考えないようにする。


 ……このひとを悩ませているのはまぎれもないわたしだ。ひとつのことに集中しなくちゃいけない大切な時期なのに振り回しているのはわたしだ。

 このままだと、わたしのめちゃくちゃな人生が、篤志の希望のある未来までめちゃくちゃにしてしまう。

 それでいいの?

 それがわたしの望みなの?


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