第23話 なにも見えていなかった
呆気なく、あんなによく煮たロールキャベツも食べてしまって、そうしてふたりで離れないようにしがみつくようにして眠る。さっきまでわたしに触れていた彼の指が髪をすく。
「俺はわりとすき勝手に育ったから、誰かをこんなふうに自分より大切に想う時が来るとは思ってなかったよ」
そう言ってわたしの髪に顔を埋める。このひとの『唯一』になれたことが誇らしい。わたしにできることはこれくらいしかないよ、と声に出さずに胸の奥で思う。
いつも愛してくれてありがとう。
なにを着て行ったら適当なのかよくわからなくて、紺のダブルガーゼのワンピースに白いカーディガンを合わせた。大丈夫、白と紺、間違いはない。
駅までの道を日傘をさして無言でひとり歩く。
頭の中で相変わらず、back numberの『瞬き』が流れていたけれど、その歌詞の意味は今日はわたしにはわからなかった。しあわせとは、という冒頭部分が頭の中をぐるぐる回る。ピンと来ない。
駅前の約束の場所に着くと、見慣れたはずの二ノ宮さんの姿に驚いて、すぐに声がかけられない。今日は軽いジャケットにチノパンで、いつものかっちりしたスーツ姿とはあまりに印象が違った。人混みの中、傘を閉じる。
「岩崎さん、場所、すぐにわかりました?」
「はい、そんなに家から遠いわけじゃないし、この辺のことはわかってますから」
あそこの、と彼は駅前に最近できたタワーマンションを指さした。
「あそこのマンションに住んでいるんですよ」
「大きなマンションですよね」
「そうですね、四十階以上ありますから。僕のところはそんなに高くなくて、三十七階」
なるほど、二ノ宮さんが地に足がついてない浮世離れなところがあることに納得する。あんなに地上から高く離れたところに住んでいたら、地上の暮らしを忘れてしまっても仕方がない。彼はなにを思ったのか、満足げに微笑んだ。
「今度、遊びに来たらいいですよ。そんなに広くはないんですけどね」
地上二階建ての古いアパートから見たら、広くない部屋はないんじゃないかと思う。やっぱりわたしなんかとは人種が違うんだ。
「さて、行きましょうか? 今日はいつもとちょっと違うところを予約しましたから、お気に召すといいんですけど」
「高いお店じゃないですよね?」
「ああ、そんなに高くはないですよ。心配しないでください。僕のおごりです。あなたが来てくれただけでうれしいから」
週末の街はひとの流れ方も違って、二ノ宮さんがその中を先導するように歩いてくれる。たまにひとに当たりそうになると、そっと肩を押してくれた。
「ところで。もうお伺いしてもいいかなと思うんですけど……、下の名前を教えていただけませんか?」
「え、わたし、名乗りませんでしたか?」
「ええ、ネームプレートには下の名前は書いてないですし」
どうしようかな、と一瞬、迷う。でもこんなにお世話になってしまっているし、名前なんてどうせただの記号だと割り切る。
「珠里です。岩崎珠里」
「珠里さんですか? いい名前ですね。僕が想像していたものよりずっといい」
「どんな名前を?」
「いや、恥ずかしいから聞かないでください。センスないんで」
照れた顔をしてうつむく。失礼かもしれないけどちょっとかわいい。いままで考えたことがなかったけれど、同世代のひとらしさを感じる。
そう言えば今日は少しいつもと感じが違う。足取りがふつうの男性と変わらない。
「二ノ宮さんは?」
「覚えてないですよね。哲朗です。哲学の『哲』に、朗らかの『朗』。別に変わったところのない名前ですよ。初めてお会いした時に名乗ったんですけど、聞いていませんでしたよね」
「ごめんなさい」
いや、いいですよ、と今度は彼は肩を落としたように見えた。いつもは堂々としているスーツ姿の彼とは明らかに違い、思っていたより喜怒哀楽のあるひとだ。
「あの、もうひとつ。失礼かと思うんですけど、お年はおいくつですか?」
「二十五です」
「岩崎さんは落ち着いているから同じくらいかと思ってた。僕、二十八です。三つ違い。ちょうどいいかもしれませんね」
「……この間は突然、夜中に電話してすみませんでした。起こしちゃったんじゃないですか?」
「寝ようと思ってたところだったので。それより本当にあなたから電話がかかってきたのか信じられなくて、朝、あわてて着歴を見ましたよ。そうしたら確かに着信はあって、僕、すぐに電話帳登録しました。だから気に病むことないです。ウィン・ウィンてやつです」
あ、この先ですよ、と言おうとしたことを遮られる。今日の彼はいつもよりずいぶんよくしゃべる。彼もわたしと同じくらい緊張しているのかもしれない。
ちょっと隠れたところにひっそりと地下に下りる階段があって、その先に和食のお店があった。いわゆるちょっと敷居が高い感じの。ひとりでは絶対、入らないような。
「この間ね、ここに来たんですよ」
席に案内されてお茶とおしぼりが出てくる。こういうところに慣れてないというわけでもなかった。おば夫婦の家はわりと裕福で、家族で美味しいものを食べにいろんなところに連れて行ってもらったものだ。
でも、最近のわたしを考えると座り心地が悪い。
「それで、……お名前でお呼びしてもいいですか?」
「はい、どうぞ」
ここまで名前も教えずに来て、呼ばせなかったらどんなにミステリアスな女だろう?
「それで、珠里さん、ここはお好きじゃないかなって思って。和風と洋風では違うけど、この前もビュッフェの時に楽しそうに見えたから」
「あの時も、いきなり席を立ったり失礼なことをして……」
「いいんです。僕のしていることの方がずっと失礼ですよ。あなたは悪くない。もっと僕を嫌いになったっていいくらいに」
それはまずいか、と彼は苦笑した。わたしは恥ずかしさのあまりに顔を上げられなかった。
思えば、結婚を迫ってくることを除けば彼はいつも紳士的で、それでいて結婚に対しては情熱的だった。わたしを本当にすきでいてくれているんだ、と思わせてしまうほど真っ直ぐに気持ちを伝えてくれていた。
「……哲朗さん、てお呼びしても構いませんよね?」
「むしろうれしいです。いいんですか、つけあがりますよ?」
お待たせしました、こちらですね、と四角い塗り物がふたつ運ばれてきた。今日は哲朗さんはわたしにメニューを見せなかった。
その塗り物はいくつかに仕切られていて、そこに種類の違う料理が細々と入れられていた。
「松花堂弁当です。どうです? ……まだ箸をつけていませんね。この前来た時に女性が食べていて珠里さんもこういうの、すきなんじゃないかなって。自分でもおかしいと思うんですけど、どこに行ってもあなたの好みに合うか考えてしまって」
曖昧に微笑んだ。
どれだけわたしをすきだと言えば気が済むのだろう。わたしなんか本当につまらない女で、ひとに自慢できることと言えば、篤志のことくらいだ。そしてそれはこのひとに自慢しても、なにも喜んでもらえないだろう。
「いただきます」
こういった手の込んだ料理は自分でいくつも作るのは大変で、ほかの人の手によって作られていることに贅沢を感じる。口福。まさにその言葉通り、ひとくちひとくちが愛らしく、食べてしまうのがもったいない。
「哲朗さん。食べているところをじっと見ているのはマナー違反ですよ」
「すみません。ここにして良かったな、と思って。ちょっとしあわせになってました」
恥ずかしげもなくそんな大袈裟な。
確かにわたしも食べることに夢中になっていたけれど。
哲朗さんも男のひととは思えないくらい丁寧に料理を口に運んだ。ゆっくり味わっているところは好感度が高い。美味しそうにものを食べるひとだな、と今さら思った。何度も食事を一緒にしてきて、一体、なにを見ていたんだろう?
目に見えないものに怯えてなにも見えていなかった自分を愚かに思う。
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