第24話 置いて行かない約束
その時、哲朗さんのスマホが小さく震えて着信を伝えた。まずいな、とあわてて留守電に切り替える。
「すみません、仕事の電話みたいなのでちょっと外でかけてきますね。電話が終わったらすぐに戻りますから」
心底、申し訳ないという顔をして彼は席を立った。わたしは自分がどんな顔をしているのかわからなかった。
「大丈夫です。すぐ済みます。決してあなたをひとりで『置いて行ったりはしません』から」
心のどこかに置き忘れていた小さな女の子が顔をもたげる。その子は、まぶしそうにこっちを見た。見覚えのある顔をしていた。
「珠里さん……」
わたしは泣いていた。
「少しだけ待っていて」
肩に手を置くと、彼は小走りに出口に向かった。
わたしはなにをやっているんだろう? こんなところでどうして泣いているんだろう? 泣く必要なんてひとつもないのに、なんで泣いているの?
「お待たせしました。これ」
彼のポケットからはキレイにアイロンがけされたハンカチが出てきた。ああ、わたしも篤志のハンカチにアイロンくらいかけてあげればよかった。どうして手で折り目をつけるだけで満足をしていたんだろう……。それはもう取り戻しようがない。
「ありがとうございます、すみません、こんな……。哲朗さんを恥ずかしい目にあわせてしまって」
「珠里さん、気になっていたんです。この前の夜も『怖い』って仰ってたでしょう? なにか悩みがあるんじゃないですか? 僕じゃ役に立たないかもしれないですが、もしよかったら聞くことくらいは」
「……」
いまだ。話すなら、いまだ。
息をすうっと小さく吸い込む。ゆっくり、言葉を選んで。そう思う反面、鼓動は急に忙しくなった。
「哲朗さん、まだあのお話は有効ですか? わたしをすきでいてくれているなら、おつき合いしていただけますか?」
「……本気ですか? 同棲している彼は」
「別れます。それから彼のアパートを出ます。なので引っ越しをして落ち着くまで少し待っていただけますか? それから、結婚を考えるのはつき合い始めてから三ヶ月、上手く行ってからでいいでしょうか? 大切なことなので」
言ってしまった。
思っていたより冷静だった。頭の中で何度も繰り返し考えたからかもしれない。
これで大切なものはすべて手放してしまった。だってどうしろっていうの? いつまでも不安定なわたしを、まだ未来のある篤志に押しつけてはいられない。消えてしまえばいい、わたしが。
「いいんですか? 本気にしてしまいますよ。後悔しませんか?」
「後悔はあとでするものです。わたしはいまの状況を少しでも変えたいんです。行き詰まりなんです、わたし」
「なら、引っ越しは僕の部屋にしませんか? 敷金・礼金もいらないし、3LDKで部屋も余ってるんです。難しく考えないで、ルームシェアだと思えば」
「そうですね……」
涙が不覚にもぽろっと落ちる。
「珠里さん、僕は待てますよ。そんなに急がなくてもいいんです。辛いならいつでも相談に乗ります。それがたとえ彼のことだとしても。だから、無理をするのはやめてはいかがですか?」
「……引っ越しはいつならいいですか?」
「一週間後くらいなら。でもこのことは強引に勧めたりしません。あなたを泣かせるなら、それが正解だとは思いませんから」
「一週間後。来週の今日までに話をつけます。そうしたら、哲朗さんのところに行ってもいいですか?」
「僕でいいなら」
知らないひとより余程いい。このひとが相手なら少なくとも一緒にいて嫌な気分にはならない。むしろ、安心できる。
「『ひとりで置いて行ったりしない』ってさっきみたいに約束してください。そしていままであなたが言ったように、わたしをしあわせにして」
「しあわせにしますよ、きっと。あなたから飛び込んできてくれるなんて思わなかった。今日のことを後悔させません。僕はきっとあなたをしあわせにします」
そこから先は涙がカーテンのようにかかって、目の前がよく見えなかった。
自分で決めてきたことなのに、自分が信じられない。少し離れたところから自分を俯瞰するもうひとりの自分がいる。
履いたヒールのかかとを引きずるようにして、家に帰る。寄り道は必要ない。
――なんて切り出したらいいんだろう? なんて?
わたしたちが別れる時、どちらから話を切り出すのかなんて考えたこともなかった。だってずっと一緒にいるつもりだった。どちらも別れ話を切り出すことはないと思っていた。それはすべて幻想で、自分の口からそれを言わなくちゃいけない時がやって来る。逃げ道はない。
ふと足が向きを変えて電車に乗った。当駅始発の列車は発車まで……というアナウンスを聞いて隅の席に座る。
窓ガラスに水滴がいくつかついている。雨だ。
篤志は傘を持って行ったかしら? 不安になる。そうしている間にドアは閉まって、電車は揺れながら走り出した。
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