第15話 知らない者同士でも
田島さんに追い出されるようにお店を出る。昼休みは昼休みなので、とりあえず三角巾とエプロンを外して、百均で買ったこぶりのバッグに財布を入れる。……どんな顔をしていいのかわからない。少なくともいきなりいい顔はできない。毅然とした態度を取らなくちゃいけない。
そのひとはお店の裏口脇に立っていた。
背筋をまっすぐに伸ばして前を向いていたけれど、わたしの気配を感じてすぐにこっちを振り返った。
「強引な誘い方をしてすみません。周りの方に誤解されてしまいましたか?」
勢いよく言われてたじろぐ。
そう、強引なんだ。わたしの返事はまだ聞いていないくせに。誤解もなにもない。
「こういうのは困ります。どういうおつもりかわかりませんが」
そうですよね、と彼はちょっと困った顔をして目を伏せた。いつもの凛とした姿とのギャップに、なんだかこっちが悪いことをしてしまったような気になる。
でも、誘い方にも礼儀というものがあるはずだ。
「一度、とりあえず一度、試しに僕と食事をしてくれませんか? それでダメなら仕方ないです」
「……わたし、つき合っているひとがいるんです。本当に困ります。こういうのやめて下さい」
お願いします、と彼は直角にお辞儀をしてわたしを閉口させた。
知らないふりをしながらさっきから田島さんが事の成り行きをちらちら見ているのも知っていた。周りを歩く人の目も気になる。
誘われ慣れていないから断り慣れていない。
その上わたしはせっかちだ。結果の出ない状態があまりすきじゃない。
「一度、ですね」
「とりあえず、一度お願いします」
顔を上げるとさっきまでの必死な表情は作り物だったのかもしれないと思うほど、彼は笑顔だった。負けたのはわたしだったのかもしれない。
彼のあとに続いてエスカレーターに乗る。どうしてこんなことになったんだろう? わたしはただいつも通りお茶を売っただけだ。あの時、このひとはどういう
最初からわたしを見ていたっけ? そうだった?
「5階がレストラン街ですよね」
「はい」
「岩崎さんは三角巾を取ると印象がやはり変わりますね」
「そうですか?」
髪に変なくせがついているかもしれないと気になる。
「ええ、ぐっと華やぐ。あなたは華やかなひとですから」
そんなことを言ったのは篤志だけだ。前の男も、その前の男もそんなことは言わなかった。いつでもわたしは彼らのおまけのように連れ歩かれて、飽きたらポイだった。
仕事をしてファンデはよれているだろうし、口紅もすっかり剥がれているだろう。お世辞、という言葉が頭に浮かぶ。
「お好きな食べ物はありますか?」
とん、と彼はエスカレーターを降りるとフロアガイドの方向に歩こうとした。
ああ、この感じはあれだ。大学生の時の合コンの感じ。あの頃、相手の男の子たちはみんな有名私大の学生で、遊んでいるようであってもどこか育ちが良かった。そしてわたしはいつも『お持ち帰り』されない女だった。
彼もきっとそのタイプで遊び慣れている感じはしないまでも、女性のエスコートには慣れているように見えた。知らない女相手でも緊張しないのかなと思う。
「あの、そこのイタリアンのお店はどうですか?」
おずおずとわたしから口を開く。歩きかけた彼がくるりと振り向く。そうしてその店の存在を確認して、わたしの顔を見た。
「パスタがお好きなんですか?」
「はい。よく来るんです……」
それは本当だった。その店のトマトのスープスパゲッティがすきで、篤志とも何度か来たことがある。そしてわたしは知らない男とフロアマップを見ながらあれこれ入る店の相談をするのが嫌だった。ましてこのフロアを一周ぐるっと回るなんて考えられもしなかった。
「行きましょう」
そんなわたしの考えなど気づきもしない様子で彼は店に入っていった。
昼時の店内は混んでいたけれど二人席にはまだ余裕があって、狭いテーブルにふたりで着く。
「本当に強引に誘って申し訳ありませんでした。名前も名乗らず申し訳ありません。
わたしの手の爪は職業柄、短く切りそろえてあった。そして指先は水仕事なので少し荒れていた。
「あの……どうしてわたしの名前を?」
「ネームプレートです。初めてお会いした時に素敵な方だなと思ってネームプレートをちらっと見たんです。それでもう一度お会いしたいという気持ちが重なって、いまのようなことになってしまったんです。気持ち悪いと思われて当然です」
いままでほとんど経験のなかった『誘われる』という行為がどんなものなのか初めてよくわかる。篤志にも確かに誘われたけれど、あの時わたしはこんな気分ではなかった。あの時の篤志の必死さはわたしの心を明るくさせ、気持ち良くさせた。
一体、なにがそんなに違うと言うんだろう。同じ『男』なのに。
「わたし、本当に困るんです。彼に対して不誠実な女になりたくないので」
「確かにそうですよね。僕だってあなたが不誠実なひとなら幻滅したかもしれません」
なら、どうして? そんなキラキラした瞳でこっちを見ないでほしい。
「僕は何にしようかな。けっこうメニューが多いんですね。やっぱりニンニクはまずいかな」
グラスについた水滴が、わたしの触れたところからするっと流れ落ちる。
緊張する。
早くこの場が終わってしまえばいいのにと強く思う。もっとはっきり断ればよかった。
「岩崎さんは決まりましたか?」
ええ、と答えると彼は店員を呼んで、誘ったお詫びにとオレンジジュースをおごってくれた。
料理が運ばれるまでの時間を長く感じる。彼は自分がどんな会社にいて、どんな仕事をしているのかざっと話してくれたようだったけど、その話は耳を右から左に通っただけだった。
確かに品が良くて、話し方のテンポもいい。仕事では有能なんだろう。だからと言ってわたしのかけがえのないひととは比べ物にならない。
何しろこのひとは自分のアピールをしているけれど、本当のわたしのことなんてこれっぽっちも知らない。営業スマイルで仕事をしている姿しか見ていない。それでなにが――。
「話そうと思っていたことが順序だてて頭に入っていたはずなのに、あなたを前にするとすっかり全部飛んでしまって。それで、突然こんなことを言うのもバカげてると思われても仕方ないんですが、僕もこんなきっかけが何度も持てるとは思っていないので途中を省きます。あなたに恋人がいるのは承知の上です。結婚を前提につき合っていただけないでしょうか?」
急いで口に含んでいたジュースを飲み込む。危うく吹き出すところだった。そうなっていたら、わたしも二ノ宮さんも大変なことになっていた。
すぐには言葉が出てこなくて、信じられないことを言った彼の目を疑うように見ていた。
「信じられないとは思います。現に、言っている自分が信じられない。僕は長男ではないし、親とは別居して自分のマンションに住んでいます。だから親からの干渉はありません。そういう心配はありません」
失礼します、とわたしと彼のパスタが運ばれて、目の前に置かれる。どうしたものか。パスタは目の前で待っている。
「わたし、二ノ宮さんのことを何も知らない。写真だけ見たお見合い相手だってもっとよく知っていると思います。あなたはそういうふうに思って毎日わたしを見ていたんだとしても、わたしはあなたをそんな目で見たことがありません。申し訳ないんですけどお客様のひとりとしてしか」
「そうですよね。それはわかっています。僕だって唐突に交際を申し込まれたら『はい』とは言えません。まずはお互いをよく知り合わないと決められませんよね。少しずつでいいので、僕を知ってくれませんか? 僕はあなたのことを小さなことでもいいから知りたい」
わたしのなにを? 親がいないことを? 出たのはつまらない女子大だということを? 心の病気だということを?
第一わたしにどうやってこの男を知れと言うんだろう。知ったらどうだと言うんだろう。知れば知るほど、彼をすきになる魔法でもかけられてしまうんだろうか?
「無理です。わたしにはなんのメリットもないわ」
「そうじゃないことを知ってもらいます。幸い仕事も収入も安定しています。少なくとも僕はあなたが人生で望む何割かは与えてあげられると思う。後悔はさせません」
「……わたしの望むものを知っているんですか? そんなの傲慢だわ。わたしにはあなたに教えられるような秘密はなにもありません。あるがままです。お話はよくわかりました。でも一度で結構です」
最後の方は声が震えていた。
頭の悪そうな女に見えるから、こんなことを言われるんだろうか?
目の前に手をつけていないスパゲッティがあった。バッグの中に手を突っ込むと千円札を一枚、テーブルに置いた。
「バカにしないでください」
岩崎さん、と呼ぶ声が背中に聞こえた。だけど振り返るはずもなかった。急いで乗ったエスカレーターは迷うことなくわたしを地階まで連れ戻してくれる。涙が目の端ににじんでくる。でも泣かない。泣いたら負けだから。
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