第2章 愛すること、愛されること(珠里)
第14話 他のひとが入る余地
◇◇◇珠里
お店に初めてその人が現れたのは、閉店作業中の事だった。
わたしはその時間に来るサラリーマンが嫌いだった。
なぜならお茶のこともよく知らないでやって来て、もうすぐ閉店なのにイチから説明をしてあげなくちゃいけなくて、試飲をして、ようやく品が決まる。
お店の売上が上がるのはいいことだ。その日のノルマに響くから。でも早く閉めないとビルの管理局から苦情が来る。それなのに客は時によってはわたしに慣れないのしを書かせて、包装をさせ、領収証には「前カブ」とか「あとカブ」とか面倒なことを言い出す。
手提げ袋に包みを入れて「ありがとうございました」と見えなくなるまで頭を下げてため息をつく。
まったくもう、というときには『蛍の光』だ。
その人もその典型で、お茶のことを知らないどころか普段は飲まないんだと言った。それならお茶じゃなくてコーヒーを買えばいいじゃない、と思う。うちの店ではコーヒーも扱っていたからだ。
「ご予算、三千円でしたらこちらはいかがでしょうか? 色がよく出る品種、味わいのある品種、香り高い品種をほどよくブレンドした品になっています」
「日本茶ってブレンドするの? してないのはないの?」
「……ございますけど、ブレンドしたものが主流です。それぞれの長所を生かすんです。お試しなさってはいかがですか?」
彼は高そうな腕時計を出して、時間を確認した。そうだ、もう『蛍の光』がかかっている。早くしないと篤志が帰ってきてしまうし、その時わたしが家にいなかったら心配する。
「じゃあ少し」
かしこまりました、と言って道具を取りに洗い場に戻る。簡単にいれればいいかな、と思ってお湯の温度と、お茶の蒸らし時間だけ、よく気をつける。茶釜から柄杓でお湯を汲んで適度に冷ます。
彼は珍しそうにそれを眺めている。
「茶釜、ですか?」
「はい。こんなふうに少し時間をかけて、熱湯ではないぬるめのお湯でゆっくり蒸らしてあげるんです。急がないことが美味しいお茶をいれるコツなんです」
いただきます、とこぶりな試飲用の湯のみに彼は口をつける。次に言うことは決まっている。
「美味しいですね」
そうでしょう? 急いでいる時だって、じっくりいれているもの。
「ではこちらでよろしいでしょうか?」
あ、のしはいらないので、と彼は言った。急いでるんだろう。わたしは包装をして、知らない会社宛ての領収証を切った。
それからレジ締めをして帰宅が九時頃になって、心配させたかなと思ったけれど取り越し苦労だった。篤志もまだ帰ってなかったからだ。
そんなことはよくあることだったのでそれ以上、気にも留めずにいたのだけど、数日後、お昼に店に立っているとペットボトルのお茶を買いに来たお客さんがその人だった。
目が合う。そんなふうに真正面から見つめられると知らないふりはできない。
「これください」
「はい、ありがとうございます」
それ以上、何もなかった。そのひとはお茶を買って帰って行った。領収証の宛名の会社はこの近くなのか、思った。
「最近さぁ、やたら見た目のいいサラリーマン、お昼に毎日お茶買いに来るよねぇ」
田島さんがそう言い出すと、
「ああ、あのひと。背が高くて品がいいわよね」
と平塚さんもうなずいた。
それはもう、あのひとのことだな、と思うのでなにも言わない。お昼の当番がわたしだと、必ず目を見て挨拶していく。それはつまりアレだ。そうでなければ自意識過剰だ。
「岩崎さん狙いよね」
「でしょうねぇ。オバチャンたちには用はないだろうから」
「そんなことないでしょう? ただお茶を買いに来てくれてるお客さんだし。それにそういうのは困るし。彼はもういるから」
田島さんと平塚さんは顔を見合わせて笑った。そんなにおかしなことを言ったかしら、と思う。
「この間の彼氏ね。確かにイケメンだったけどまだ若いじゃない。岩崎さんをお嫁さんにしてくれるのはまだまだ先でしょう? それまでに男遊びってわけじゃないけど、いろんなひとと知り合った方がいいわよ」
「そうそう、岩崎さんなら選り取りみどりでしょう? いまから先のこと決めちゃってたらもったいない。あのお客さん、仕事もできる男だと思うわよ。すきで結婚してもお金に苦労したら上手くいかないからね」
それはみんな、篤志のことを知らないからだ。わたしにとっての篤志は歳もお金のことも全然関係なくて、あんなにひどかったわたしを見捨てないで一緒にいてくれたことがすべてだ。それはなにを置いても、ずっとすごいことだ。
篤志がいなければ、いまここにいるわたしはいない。でもそれは簡単に説明できることではなかった。ふたりだけにしかわからないことだから。
「本当にしつこいひとだったらなんとかしてあげるから大丈夫よ。安心して仕事しなさいな」
「はぁい」
やだなぁ、また来るのかなぁ。来られてもなにもしてあげられることはないのに。なにを期待されても困るのに。
お昼休憩に入る前に田島さんがお手洗いに行きたいと言ったので売り場で待っていた。お昼になるとほかのテナントの従業員も休憩に入るので、どっとペットボトルのお茶を求めて客がやって来る。
「すみません、これお願いします」
「はーい」
感じのいい笑顔を作って振り返ると、そこには例の彼がいた。笑顔が凍りついてすぐに表情が変わらない。このままじゃ彼に笑顔を向け続ける女になってしまう。
「岩崎さん、お昼休憩、これからですか?」
「戻ったから休憩入っていいわよ」
田島さんが固まるわたしを見て、ごめんね、と目配せする。タイミングが悪かった。「ゆっくりしてきても大丈夫よ」と小声でささやかれる。ああ、もう逃げられそうにない。
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