第13話 がんばらない

 今年の桜は例年より早くて、気がつくとパッと咲いてしまった。

 ふたりで散歩がてら花見をする。散ってしまった花が多い中、珠里が花びらを集める。

「ねぇ、茶色くなってないの見つけて」

「届くところから拝借しようか?」

「借りるわけじゃないし、それに花を摘むのはルール違反だよ」

 舗道のすみに風で寄ってしまった花びらまで注意深く見て回る。ちょろちょろと花びらを探す珠里の髪の間に、散ったばかりのそれを見つける。

「ほら」

「あ。こんなに一生懸命探したのに、この一枚がいちばんキレイだなんて」

 薄紅色の花びらを指先につまんでじっと目を凝らし、それから、ふふっと微笑んだ。


「それをどうするの?」

「これ? このいちばんキレイなのを手帳に挟んでおくの。押し花」

「なるほど」

 また全部、どこかに放ってしまうのかと思っていた。珠里にとってそんなふうに大切に思えたものもすべて、すぐに意味のないものに変わってしまうのかと。

「去年の桜は――」

「別にいいよ。男は別に見なくてもいいんだから。ほら、どっちかと言うと『花より団子』で、それをついでに飲めればいいんだよ」

「去年は花見酒なんてしなかったじゃない」

「今年の桜が見られればいいでしょう?」

 つないでいる手に力がこもる。


 去年の今ごろ、珠里の通院は始まった。クリニックに行くまでの道のりにもあちこち桜は咲いていたけれど、なんだか俺まですべてのものがぼんやり見えて特にキレイだと思わなかった。

 もしあの時、あの桜をキレイだと思っていたら無理にでも珠里を連れ出しただろう。

「花びら、きちんと挟めたの?」

「うん、今日の記念にね」

 こんなふうに穏やかに繰り返していく毎日が記念日だ。


「……最近さぁ」

 公園の桜並木を過ぎて、珠里は口を開いた。あまり言いたくないことを言葉にするようだ。

「お店に、いつも同じ人が来るの」

「うん」

 そういうのを『常連客』というのだろう、と楽観的に捉えた。珠里みたいな売り子がいたら通いたくなる客もいるだろう。

 なんでも珠里はオジサンも、オバサンも年齢も関係なくどんな客の話もゆっくり聞いているらしかった。


「なんか、知らない人なのに目が合うと挨拶してきてちょっと怖いなぁって思って」

「どんなひと?」

「若い、サラリーマン。きちんとした感じの」

「全然知らないひとなの?」

「……ううん、一回贈答品を買いに来たことがあってそれから」

 それはどう考えても珠里目当ての客だろう。日本茶の売店なんかに毎日通うサラリーマンなんて聞いたことがない。

「オバサンたちはそのこと知らないの?」

「ううん、知ってるからいつもそのひとの来る時間に前に立たなくていいようにしてくれるの」

「そっか。ストーカーとかいるし、気をつけなよ。しつこいなら迎えに行くし」


 くすくす、と珠里は笑う。

 春風がやわらかい髪を肩先で揺らす。

「ストーカーは怖いけど、わたしの仕事が終わる時間に篤志は間に合わないよ。気持ちだけもらっておく」

「ほら、途中で待ち合わせしてもいいし。珠里のビルにもスタバだってあるし」

「毎日そんなところに寄ってたら、働いてきたお金がなくなっちゃうでしょう? お金は大切なんだよ」

 ――珠里の方が大切だよ。

 その日、今まで言わずにいたことをぽろっとこぼした。珠里は戸惑っていた。


「篤志って意外に情熱的。ほら、わたしは篤志に負債があるし、がんばって働かないと」

「がんばらないって、決めてるでしょう?」

「……はい、そうだね。同じことの繰り返しになっちゃうもんね」

 俺たちの間で『がんばる』は禁止されていた。がんばることは無理をすることで、無理をすればまたどこかにひずみが来る。それは医師の話にもあった。

 病気になる前の珠里も結局、精神的なリミットを超えて働いたことで何もできなくなってしまった。仕事だけじゃなく、笑うことさえ。

 そんなことが二度も来たら、珠里は保たないかもしれない。いまこそ元気に笑っているけれど、いつ、折れてしまうかわからない。


「そんなに深刻にならないで。そういうお客さんがいるんだよって、それだけ。ヤキモチ妬くところじゃん?」

「ヤキモチ妬くほどいい男なんだ?」

「さぁ、それはどうかな? 見に来る?」

 行かないよ、と答えた。俺の心配はそんなサラリーマンのことではなくて、珠里の心の中のことだけだ。

 またあんな顔をした珠里を見たくない。それはもしかしたら自分勝手な考えなのかもしれない。ありのままの珠里を受け入れるなら、あの珠里も受け入れるべきなのかもしれないけど。


 食べることもしないでやせ細っていく彼女を見ているのは堪らなかった。

「どうしたの、黙っちゃって」

「珠里はずいぶん楽しそうだな」

「楽しいよ。すきなひととお花見って最高! 来られてよかった。来年も来ようね。……あ、タコ焼き買い忘れたよ?」

「勘弁してよ、タコ焼き屋、ずいぶん前だったでしょう?」

 口を開けて珠里は笑った。

 くるくる表情を変えて笑う珠里は、それだけでしあわせを運んでくる。くるり、と身をひるがえして来た方向へと走っていく。

 置いていかれないように追いかけて捕まえなくちゃ。タコ焼きくらい買いに行ってやるのに。俺のそばにいればいいのに。

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