第12話 『しあわせ』ということ

 学校が終わるとできる限り早く帰る。

 帰る姿はまるでジョギングだね、と小林に冷やかされる。

 配属が決まっている研究室にはもう俺用のカップが置かれていて、ひと月にいくらという決められたお茶代を払う。代わりに紅茶もコーヒーも飲み放題だった。

 でも俺は作業が終わり次第、荷物をカバンに詰めて立ち上がる。他のみんなのようにゆっくりお茶をしている暇なんてなかった。

 またいつ珠里が不安定になるかと思うと、できるだけ急いで帰るよう気が急いた。アパートの階段をかけ上って息を整えながらドアを開ける。明かりはついている。セーフだ。泣きながら待ってるわけじゃない。


「おかえり。今日、遅くなっちゃったから半額のお惣菜買っちゃったの。ごめんね」

 いいよ、そんなの。カバンを下ろして背中から抱きしめる。

「ただいま。今日も遅くなってごめん」

「そう? いつもより早いくらいだよ」

 珠里は笑ってそう言った。

「どうしたの? 最近は帰宅時間の記録に挑戦?」

「そんなんじゃないよ」

「そお?」

 いただきます、をしてコロッケに手をつける。


「珠里を待たせたくないだけ」

「……」

 珠里は箸を下ろしてしまった。

「悲しませたくないだけだよ。珠里、消えちゃいそうで怖い」

「篤志のものなのに?」

「いまはそうでもこの先はわかんないじゃん。研究室にこもってたら捨てられそうだもん、俺」

「捨てません」

「じゃあさ」

 ぐっと力を込める。気合と勢いが必要だ。大切なことを言う時は緊張する。なぜなら、言葉が足りなくなりそうだから。

 ずっと心の中でもやもやしていたことを言葉にする。それには勇気の助けを借りないといけない。

「俺が珠里をしあわせにしたいって言ったら怒る?」

 もちろん珠里は俺が就活もしないでいることを知っている。まだまだ結婚なんてできそうにないことも。


「本気?」

「本気。そんなこと言う権利はないかもしれないけど、珠里をしあわせにしたいんだ。いつになっちゃうかわかんなくて申し訳ないけど」

「……いつでもいいよ。もし結婚のことを気にしてるんなら、結婚なんて形だし、篤志がわたしをここの家の子にしてくれていれば大丈夫だと思うの。篤志を信じていられるよ」

「約束する。きっとしあわせにする。ちゃんとしたことはすぐにできるって言えないけど、珠里はずっとここにいて。いなくなったら俺が困るんだよ」

 ずずずっと珠里は俺との距離を詰めてすぐ隣に来る。ご飯中なのにキスをする。食べてたものは同じだから何も気にならない。コロッケとコロッケが混じったところでなんらかの化学変化は起こらないだろう。

 それが起きるのは、俺と珠里の間だ。

 ご飯食べてからね、と照れくさそうに珠里は席に戻った。


 働き始めてからの珠里は毎日が楽しそうで、キラキラとまた輝きはじめた。まぶしくて真正面から見ていられないくらいだった。

 珠里は社割で家で使うための急須とお茶を買ってきて、夕食後にはふたりで百均で買ったおそろいの湯のみでゆっくりお茶をした。

「仕事、楽しい?」

「うん、楽しい。あの職場にしてよかった」

 そっか、とお茶を飲む。珠里のいれるお茶は熱すぎず、とろりとした甘いお茶だった。


「こう見えてもけっこうモテるんだよ、おじさんに」

 珠里は意地悪く笑った。

「『岩崎さんだから高いお茶、買うんだからね』って言われたりするの。水商売じゃないのにねぇ」

「そういうのは田島さんとかに代わってもらえよ」

「あ、ヤキモチ妬いてる? やったぁ、妬かせてみたかったから言ったの」

 楽しそうでなによりだ。口で言うほど男性客の多い店にはとても見えなかったし、そんなことでやきもきするのもバカらしい。第一、約束をしたばかりだし。


「珠里?」

「なぁに?」

「……他の人について行かないように。珠里はうちの子なんだからさ」

 ぷっ、と珠里は吹き出して、両手で口を覆った。

「やだなぁ、むせちゃうかと思ったじゃない。なに言ってるの? わたしが拾われたのは篤志で、それを裏切ってどこに行くって言うのよ」

「拾ったから恩返しなの?」

「違う。わたしはもうこの家の子だし、篤志の家族になったんだよ? ……あんなに辛かった時になにも言わないでここに置いてくれたのに、それを上回るひとがどこにいるって言うの?」

 神妙な顔をして珠里はそこまでを言った。確かに俺は珠里を手放したりしなかった。でもそれは百パーセントのやさしさからだけじゃなかったはずだ。


 どんなに珠里が壊れていても、それでも珠里のいない生活に戻る気はなかった。つまり、エゴだ。珠里を自分だけのものにしておきたかったから、手放さなかっただけだ。

「俺だって珠里のいない生活はさみしいんだよ」

 向かい合って座っていた俺の手を、珠里はそっと取った。

「篤志をもうさみしくさせたりしない。わたし、がんばるから」

「バカだな、珠里は。がんばったらいけないって先生に言われてるじゃないか」

「そうかもしれないけど。でも、また篤志の『お荷物』になっちゃうのはごめんだもの。これからはわたしが篤志の夢を叶える手伝いをさせてもらわなきゃ」

「夢なんて、そんな大それたものはないよ」

 そう口にしながら、『結婚』という二文字がチラつく。珠里はそろそろ適齢期というやつだ。早いやつは一年後、大学を卒業したらすぐに結婚するんだろうな。


 ピンとこない。

『しあわせにする』という約束はイコール『結婚』ではなくて、自分にはその前にすることがある。けどそれが『夢』なのかと言われたら、それもピンとこない。

 二十二にもなって、あまりにも未来が曖昧だった。

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