第5章 『青い鳥』(珠里)

第44話 坂道をのぼって

 ◇◇◇珠里


 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、……。

 つーっと首筋に一筋の汗が流れる。梅雨の晴れ間とはいえ、この日差しの強さはなんなんだ。わたしがあのマンションの窓からのぞいた空は、こんなに青くなかったのに。

 そもそも、よりによってこんなにかかとの細いサンダルをどうして履いてきてしまったんだろう。久しぶりに会う篤志にキレイだと思われたかったから? いまさら見栄を張るより、とにかく早く篤志に会いたい。日傘をさすような優雅な余裕はない。


 篤志のアパートから駅前の哲朗さんのアパートまで、およそ徒歩二十分。それはアパートから駅前まで穏やかな下り坂であるせいで、逆にアパートへ帰ろうとすると坂を上っていかなくてはならない。

 駅裏の細かい住宅地の間の一本道を、息を切らせて歩く。バランスを崩して転びそうになる。涼し気なよその家の庭木の下で小休止する。

 ああ、本当にここまで来ちゃった。追い返されるかもしれないのに。

『会いたい』とラインをしてから、実のところ返事はなかった。既読はついた。既読スルーかもしれないし、もう新しい人がいるのかもしれない。

 わたしが好ましいと思っている彼を、ほかの女の子が好ましいと思ってもなんの不思議もない。要らない女になってしまった可能性が高い。


 庭木の下にずるずるっと滑るようにしゃがみ込む。篤志にもし、新しいひとができたとして、彼女の方が好きなんだって言われたらどうしよう?

 そもそも、彼から届いた『会いたいよ』のメッセージを信じていいのかわからない……。

 なにしろ今までラインで気持ちの交換なんてしたことがなかった。だって目の前にいるなら、言葉にして直接伝えた方が早い。少なくともわたしたちはそうしてきた。

 篤志のラインの真意を測りかねる……。


 ――暑い。


 化粧が汗で溶けてくるのを感じる。迷うより進むべきなんじゃないのかな? 哲朗さんから「ダメだったら帰っておいで」という予防線を張ってもらった。いまさら哲朗さんのところにおめおめ帰れるとは思わないけど、でも、どうしよう? 

 行っても出かけていていないかもしれないし。例え会えたとしても気持ちは離れちゃってるかもしれないし。勝手に出ていったのに、どの面下げて帰れるというんだろう。

 よし、と気合を入れて一歩ずつ歩く。身軽が信条のわたしの荷物が今日はやけに重い。まるで篤志に会えないようにわざとそうしているようだ。

 一歩ずつあるいてようやくアパートまで三分のところにあるLAWSONにたどり着き、一番安いジャスミン茶を一気に飲む。ジャスミンの芳香が体を涼しくさせる。気のせいでもなんでもよかった。


 カン、カン、カン、とあの日下りたアパートの外階段を上る。ところどころペンキがはげて錆ついているところが懐かしい。部屋のドアの前には難なく簡単に着いてしまった。深く息を吸い込む。

 ピンポーン。

 少し待つ。めんどくさそうな顔をした彼を思い出す。なにしろドアフォンは壊れていて、音は鳴るけど外は見えない。

 ピンポーン。

 明らかにひとの動く気配がする。「はーい」という返事。懐かしい声。夢の中で何度聞いたかわからない。

 胸が高鳴る。受け入れてもらえるかなんてわからない。でも会いたい。一目でいいから会いたい。


「……珠里」

 曖昧に笑う。あんなに会いたかったひとが目の前にいる。クセのついた髪に無精髭。そっと、その頬に触れてみたい衝動にかられる。

「会いたくなって、帰ってきちゃった」

 わたしが触れるより早く篤志の手が伸びてきて、汗でファンデの流れた頬に触れる。この、まだ働いたことのない長い指。わたしは玄関の三和土に荷物を落として、一歩前に進んだ。

「会いたかったの」

 思い切り、気持ちのすべてをこめて彼に抱きつく。篤志はバランスを崩しかけたけれどいつものようにわたしを受け止める。彼の腕にぐっと力が入って、胸が苦しい。

「エリートサラリーマンは? 婚約はどうしたの?」

「出てきちゃったの。婚約はそもそも三ヶ月つき合ってからの約束で……」

 重みのある唇が、唇に重なる。キスひとつがこんなに違うなら、なんで迷わずすぐに帰ってこなかったんだろう。腰をきつく引かれて、そのまま部屋に上がる。華奢なサンダルはあっさり足から滑り落ちて、わたしたちはキスをしながら狭い部屋の真ん中に来ていた。


「それって、こういうことしていいってこと?」

「もうしてるのに」

「珠里は俺のもの?」

「篤志の」

 そこまで言って唇を塞がれて押し倒される。勢いはすごかったけれど、わたしが痛くないようにきちんとホールドしてくれる。なにしろこの部屋にはスプリングの効いたベッドなんて無い。あるのは薄っぺらい布団一組だ。

「……わたしのこと、まだすきでいてくれてる?」

「珠里がいなくなって気が狂うかと思った」

 「ちょっと待って。もう少しゆっくり」

「待てないよ。帰ってきたんでしょう? もう抱けないと思ってたんだ。待てない」

 いままでこんなことは一度もなかった。わたしたちは穏やかに愛し合い、ゆるやかに時を重ねてきた。


 でもいまはがっつかれてる。彼は急いでいる。女冥利に尽きる。

 わたしの豊かではない胸に顔を埋めた彼の頭のつむじが見える。当たり前だけど寸分違わない。かわいい。愛おしい。なにも変わらないことが素晴らしい。

 最後まで行った時、思わず大きな声が出て、心がなにかから解放された。

 ふたりの激しい呼吸音が重なる。同じリズムで運動を続けたからだ。心臓の鼓動も半端ない。死んでしまうかもしれない。うれしくてうれしくて、両手で顔を覆う。


「珠里」

 やさしく髪を撫でられる。

「顔を見せて」

「ぐちゃぐちゃだよ」

「いいんだよ、俺がそうしたんだから」

 そっと顔をおおっていた手を外す。篤志はわたしの顔をじっと見つめて、頭ごと抱き寄せた。

「もしまた悩むことができたら、今度は必ず相談して? それで一緒に考えよう。何がベストなのか」

 彼の手が背中を滑り落ちる。わたしたちはオイルをかぶったように肌が濡れて、しっとり、ひとつに絡んだ。


「……ごめん、珠里を信じてちゃんと待てなかったんだ」

 彼の言ったことの意味が理解できなかった。頭をめぐらせてるうちに落ち着いて、周りがよく見えるようになって、黄色くて丸いものに目が止まった。

 きちんとした家具が不足しているこの部屋に三段ボックスを買って、天辺に百均で買ったトレイを置いた。篤志とわたしのドナルドとデイジーの間に、その黄色いものは置かれていた。

「……マグカップ置くほど通ってきてるの?」

「いや、それほどでも。でも珠里のカップを使わせるわけにいかないし」

「そうなんだ。じゃあ、わたし、用済みだった? 『ただいま』って言ったらいけないってことだよね?」

「そうじゃなくて。その……待てなかったのは本当だけど、珠里には帰ってきてほしい。珠里しかすきじゃないのに、ごめん、傷つけて」


 まっすぐに彼を見られない。どうしよう、こんなことはあるかもしれないと思ってきたのに、どうしよう。覚悟を決めなくちゃいけない。

「わかった。わたしもほかの男に抱かれてたわけだし、これでチャラにしよう」

 そうだ、それでこそフェアってものだ。声が震えている。心の奥底にくすぶるものを押さえつける。

「珠里の、そういう物事の割り切り方は嫌いなわけじゃないけど、聞きたくないことまで言わないでよ」

 そうだね、と彼の胸に頭を押し付ける。


 ああ、やっぱりエアコンのコンセントは抜いたままだ。節電のために夏は猛暑になるまでコンセントは入れないと決めたのはわたしだ。

「扇風機回していい?」

「聞く必要ないでしょう」

 足を伸ばしてお行儀悪くスイッチを押す。リモコン付きは少しだけ高かったのでうちのは手動だ。

 すっかり二ノ宮家の快適な空調に慣れて、わたしの体は堕落していた。

「シャワー、浴びなよ」

「うん、篤志もね」



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