第46話 あの日、この場所で
そこは初めて篤志に誘われた時に入った居酒屋だった。
何名様ですか、と聞かれて篤志は、予約の、と答えた。なんでここにしたの、と聞くと、思い出の場所だから、と言いながら彼の目は待ち人を探してさまよっていた。
ざわめく人々の間をすり抜けて席に通される。そこには知らない女の子がいた。わたしがその子をじっと見ると、篤志は自分の背中からそっとわたしを引き出し奥の席に座らせて、自分はその隣に座る。手を出すと、昔のようにおしぼりを渡してくれる。わたしはわたしの彼に満足してうっとり微笑んだ。
「サコ、岩崎珠里さん」
初めまして、とその子は早口に言った。
「珠里、この子はうちの三年生の宍倉朝子さん」
よろしく、とわたしは営業スマイルで小首を軽く傾げた。
『サコ』はメガネの向こうからまるで魚眼レンズをのぞく時のようにわたしを観察していた。一応、化粧はしたけど崩れたかもしれない。でも見てみると、相手はリップも塗っていないようだった。
すっぴんで人前に出られるなんてうらやましい。わたしは自分に自信がないから、いつでもしっかり化粧という鎧をまとわなければいけない。
この子くらいの歳の時にはもうフルメイクをしてたように思う。
「『サコ』って、『アサコ』の愛称なのね。リネンの麻?」
「いいえ、朝顔の朝です」
「夏の朝生まれたの? まんまなんだね」
「まんまですけど、気に入ってますから」
篤志が何飲む、と聞いてきたので、せっかく居酒屋に来たのだから、グラスビールを頼む。彼はそんなわたしを好ましく思って見ている。下戸なのだから、気持ちだけ飲めればいい。サコは篤志と同じ、中ジョッキだ。
「サコ、ひとりでよく店に入れたね?」
「外で待つよりましだと思ったから。予約してるって言ってたし。……男友だちに紹介してくれるのかと思った」
小さくて細いサコは、小学生の女の子がしゃべるようなすねた口調で篤志を責めた。それは間違いじゃなかったと思う。
うちに通ってすることをしてたら、女の子は自分が唯一の彼女だと思うだろう。
「サコ、すごく言い難いんだけど別れた彼女っていうのは珠里なんだ。もう一回やり直したいと思ってる。ごめん、珠里だけが大切なんだ」
篤志は深く頭を下げた。その表情はわたしからは見えない。珠里だけが、なんて言い過ぎじゃないかな、と心配になる。
サコはどん、と乱暴にジョッキをテーブルに置いた。もう半分まで減ってる。ずいぶんペースが早い。
「捨てたくせに! あなたがあっちゃんを捨てたんでしょう? 今さら帰ってくるなんて有り得ない。そんなの誠実さのかけらもない。あなたはきっとあっちゃんをまた傷つけると思う」
「……あっちゃん?」
篤志の方を見ると、そこにやましいことがあるのかこっちを見ようとしない。
ふたりの仲は、思っていたより親密そうだった。わたしがそこに入れるのか、ちょっと微妙な気がしてくる。
「サコ、本当にごめん。俺、今度こそ珠里を大切にしたいんだ。ひどいこと言ってるのはわかってる。けど例えだまされても珠里と一緒にいたい。今度は珠里の心変わりを許さない」
「――いいよって言うわけないでしょ? ひどいよ、初めてはあっちゃんと……」
そこまで言って、サコは泣き出した。
わたしは隣にいる篤志の頭を両手でぐっとわたしに向けて、ゆっくり唇を近づける。彼の首の後ろ側に片腕を回す。篤志は困った顔をしていたけど、観念してわたしを受け入れた。そうして、うんと濃いキスをする。その小さく仕切られたスペースの中で、サコは驚いて声も出さなかった。
「珠里、いまはまずいよ」
「ごめん、ちょっとしたくなっちゃったの」
彼女は唖然とした顔をして、いつの間にか泣き止んでいた。そして「不潔!」と叫ぶとバッグをつかんでわたしたちをそこに置いて逃げるように帰っていった。
「……本当は」
「どうした?」
「ちょっと気持ち悪い」
「あ! グラス一杯飲んじゃったんだね? 自分に返ってくるんだから飲んだらいかんでしょう」
こてん、と彼の肩に頭を乗せる。言ってもいいかなって三回考える。考えようとするわたしを蹴飛ばして、自分勝手な言葉が彼を傷つける。
「『初めて』だってよ」
「うん、わかってる」
「……やり逃げ?」
「そんなことはしないよ。あと、これ以上は答えないよ、プライベートなことだから」
プライベート、という言葉はわたしたちを否応なしに引き剥がす。忌々しい言葉だ。わたしの言葉の行くべき場所が遠のいて行く。なんだか気持ちがすぐにナーバスになって、逃げて隠れたくなる。どんなに想っていても伝わらないことがあるんだなぁ。
「……気持ち悪い」
「水飲む? お手洗いに行く?」
焦った顔で篤志はわたしの顔をのぞき込む。
「帰りたい……」
こんな思いはもうたくさんだった。でも、家でほかの女に会う篤志を想像して待つのはもっと無理だった。結局、わたしは怖いんだ。また篤志を失うかもしれないことが。
「顔色が悪いよ。歩ける?」
「大丈夫、歩くよ」
お会計してくる、と篤志は言って、わたしは先に店を出た。
あの日、誘われて篤志とここに来て以来、この店には来たことはなかった。懐かしさがふわっと込み上げる。季節はまだ初夏で、空気はもっとさっぱりしていた。
どうしてあの日、知らない男の子と一緒に飲んで、その子の家までついて行ってしまったんだろう? 男の家に泊まるということがなにを意味するか、知らないわけではなかったのに。
年下の男の子が珍しかったから?
「珠里、どうしたの? 本当に歩ける? どこかで休んでもいいんだよ」
わたしはくるりと彼を振り返った。そうしてその、三つ年下の男の子に腕を回して抱きつくと、その胸に耳を寄せた。
雑踏の喧騒の中、彼の心音は聞こえなかった。けれど体温は伝わってきた。
「五目そば、食べたいかも」
「酔っ払ってるのに? 吐かない?」
「お腹空いた」
篤志は難しい顔をした。考えている、わたしのわがままを。
「気持ち悪くなったら絶対、すぐに言うように」
「はぁい」
「行こう」
するりと迷いなく腕を絡める。わたしも彼の腕も汗でぺたぺたしていた。でもそんなことはお構いなしにいつもの店に向かう。
しあわせとは……。
五目そばを篤志と食べること。
そんな簡単なことが簡単に行えること、それは奇跡なんだ。
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