第18話 砂糖菓子のような
ある日突然それはやってきた。
小学生になったばかりだったわたしは手を引かれて黒い服を着た。
当たり前にあるはずだった『家』と『家族』を失った。それはなんの前触れもなく、雪崩のようにわたしに襲いかかった。
暗い闇の中から誰かが手を差し伸べる。
珠里、珠里、とおばがわたしに呼びかける。その手を取ったけれど、その手にすがることはなかった。だって、お父さんとお母さんの代わりはどこにもいない。
「……珠里、珠里」
ハッと目覚める。そうだ、ここは失ったあの家じゃない。こんな夢は近頃見たことがなかったのに、どうしたんだろう? お父さんとお母さんを思い出したってなにもいいことはないのに。
「どうした? すごくうなされてたけど。汗すごいよ」
「……ああ、本当だ。大丈夫、子供の頃の夢を見ちゃったの。おかしくない? 過去は変えられるわけじゃないのにいまさら」
「珠里……。やっぱり疲れてるんじゃない? 仕事は辛くない? 薬はちゃんと飲んでる?」
篤志の顔を見上げる。心配そうにわたしの顔をのぞき込んでいる。まだあどけなさの残る顔には大人になりきれない彼の心が表れている。このひとが父親になるのはまだまだ先だろう。でもこのひと以外、考えられない。
『家』と『家族』。どちらもわたしにとってはすごいパワーワードだ。それはわたしにとって、目の前にあるのに届かない甘い砂糖菓子のようなものだった。
ある意味あのひとはわたしを揺さぶるのに成功した。あのひとはいとも簡単にそのふたつの言葉を口にした。わたしにそれをくれると。なにも話してないのに、まだなにも。
「珠里?」
「ちょっとだけこうしてていい? 怖くなっちゃった。夢を見て怖くなるなんて恥ずかしいんだけど、学校には間に合うようにちゃんと解放するから」
ぎゅっと彼にしがみつくわたしを普通じゃないと気がついて、そのままやわらかく抱きしめてくれる。ああ、そう。いつだって帰る場所はここにあるじゃない。
居場所を見つけてほっとする。
「もう大丈夫」
「病院に行く? 最近、調子悪いんじゃないの? 疲れて見えるけど。一緒に行くよ」
「学校があるからダメだよ。わたし、篤志の足を引っ張りたくない。ちゃんと学校に行って。今日は仕事、休ませてもらうから本当に大丈夫。だから学校に行って。遅刻しちゃうよ」
本当に休めるの、と言いながら彼は学校に行く支度を始めた。
これでいい。自分の問題は自分でどうにかしなくちゃ。
考えてみればわたしの方が三つも歳上なんだもの、結婚観が違ってもなにも気にする必要がない。しかもわたしはそれに囚われている。それだけだ。なにも怖がる必要はない。もっと肩の力を抜こう。
とにかく篤志を学校に行かせなくちゃ。
「行ってくるね、帰りは早くなるよう気をつけるけど、なにかあったらすぐに連絡して。いい?」
「うん、そうする。ゆっくり寝てるよ。休みの日でもふらふらしてたのが悪かったんだと思うの。――ねぇ、メーテルリンクの青い鳥って知ってる?」
「なんだよ突然。俺の青い鳥は珠里だよ。気がつけばそばにいて、思っていたより簡単に手に入ったから。わざわざ言わせるなよ、恥ずかしいよ」
じゃあ、と言って彼は家を出た。これでひとりきりだ。
どうしよう。
いまのわたしには家と向き合う気力がない。
仕方がなく、休みたいと電話を入れる。快く「病弱な」わたしを休ませてくれると田島さんは言ってくれた。今日は平塚さんが休みのはずだった。申し訳ないなぁと思うとまだ温もりの残る布団の中でわたしは泣いた。
誰かに迷惑をかけて生きていきたくなくて、高校を卒業するとすぐにおばの家を出た。不安はあったけど、初めてひとりで出る社会は開放感もあった。ある意味、わたしは自由になった。そしてそれと引き換えに「孤独」を手にした。
孤独はどんどんわたしの中で膨らんでいった。なにをしても空回りで、ベストを尽くしたつもりでも上手くいかなかった。社会からわたしは浮いていった。
それを拾ってくれたのが篤志だ。
篤志のお荷物にだけはなりたくない。ここで踏ん張って、自分のことは自分でなんとかできると見せたい。腕を伸ばして電話を手にする。
やっぱり大丈夫そうだから仕事、出ます。
田島さんは電話の向こうで心底、心配してくれているようだった。平塚さんも今日は用事がないって言ってたから大丈夫よ、と彼女は言った。
大丈夫です、とわたしは言った。一時間遅れで仕事に行く約束をした。
行ってしまえばいつもと同じように時間は過ぎて、お客さんたちとの話は楽しかった。なにしろ暇な職場なので、販売よりおしゃべりの方がよっぽど多い。その方がいい。ひとりでいるよりずっと気が紛れる。
あの狭い部屋で失くしてしまった『家』に思いを馳せるより、ここにいてなにもかも忘れてしまった方が何倍もましだ。
「岩崎さん!」
不意に腕を掴まれる。あ、と思うと彼はわたしの話していたお客さんに「失礼」と言って昨日のように強く腕を引いた。
「なにしてるんです? 顔色、ひどいですよ」
「お昼の時間はとっくに過ぎてるんじゃ……」
「取引先に持っていくお茶を見にきたんですよ。この前のお茶が美味しかったと言われて。あなたが売ってくれたでしょう?」
ああ、あの時の。
確かに今日はいつもなら足元が冷えるくらいの空調が、体を冷やさずにいた。額に汗を感じる。
田島さんと二ノ宮さんが話をしていた。壁に寄りかかってそれをぼんやり見ていた。いつの間にか、二ノ宮さんの手にはうちの手提げ袋があって、時間の感覚がおかしいことがわかる。
「岩崎さん、三十分くらいで済みますから」
なんのことなのかわからない。田島さんが心配そうにこっちを見ている。よくわからないまま彼にうなずいた。
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