第17話 『家』
気がつけば手を引かれるままビルを出ていて、青葉を茂らせた並木道をさわやかな風がそっと撫でた。
ビルに入る人々はわたしたちを避けるように左右に分かれてショッピングに向かう。その場に立っているのは気まずかった。
「わかりました、行きましょう。ここにいたら営業妨害になっちゃうから」
彼は表情を変えてにこっと人懐こく笑った。サラリーマン然としているときにはただ真っ直ぐなひとなのに、くだけた顔をすると無邪気さが顔を出す。そんな顔をされると、憎めなくなる。
「大通りを真っ直ぐ行ったところにあるレストランのビュッフェ、美味しいんですよ」
彼は身長のわりに歩幅が小さくゆっくりで、わたしに合わせてくれていることがわかる。戸惑ってわたしは彼を斜め下から見上げる。
屋内ではそれほど思ったことはなかったけれど、彼は背が高かった。篤志とどっちが高いだろう? 違う、この人と篤志は同じ土俵に上がらない。
「どうかしましたか?」
「いいえ。……二ノ宮さんて背が高いんだなと思って」
「ああ、並んで歩いたことなかったかもしれませんね。ビルの中は狭いから」
下を向く。会話が上手くつながらない。つなげなくちゃいけないわけでもない。ただ、沈黙の底に沈んでいるのが心地悪い。
「そこです」
いよいよ居心地が悪くなるより早く目的地に着いてほっとする。
「ほら、ガラス張りの。あそこ、レストランなんですよ」
目をこらすとガラス越しに食事を楽しむひとたちが見えた。プレートを持って席を移動しているところを見ると確かにビュッフェ形式らしかった。
「メインだけメニューから選ぶんです。Aコースがパスタで、Bが魚、Cが肉です。サラダとドリンク、パンが食べ放題ですね」
店の前のメニュー表を見て、彼は丁寧に説明してくれた。肉と魚はプラス料金で、もともと麺類がすきなわたしはパスタでいいかな、と思う。今日のパスタは二種類から選べて、フレッシュトマトのスパゲッティを頼む。
「パスタがお好きなんですね?」
いいえ、麺類がすきなんです、とは答えなかった。
「二ノ宮さんはクリームソース系がお好きなんですね」
「ああ、午後も仕事でひとに会うのでニンニクはまずいかなと。普段はペペロンチーノだってなんだって食べますよ」
わたしはスパゲッティを食べながら上目づかいに彼を見上げて話を聞いた。
あんなに拒んでいたのに、ふたりになって冷静に話してみると感じのいいひとだった。さっぱりとした語り口も笑顔も確かに感じがよかった。
――いいひとなのかもしれない、という考えが頭をもたげる。でもちょっと待って。それでもいきなり『結婚』はないだろう。
「そうそう、そんなふうに僕を観察してください。僕はあなたを少しでも知りたいし、同時にあなたに僕を少しでも知ってほしい。いまみたいな時間が貴重なんです。あなたがあなたの恋人と結婚を決める前に、僕を知ってもらわないと」
フレッシュトマトはちょっと酸っぱかった。トマトの赤にバジルの葉の緑が映える。
「わたしのことなんてよく知ってもいいことはありませんよ。わたし、大学生の彼の部屋に寄生してるんです。軽蔑するでしょう? あなたが思っているような女じゃないわ」
二ノ宮さんは口に入れようとしたフォークを下げた。そうしてわたしの目の奥までじっとのぞき込んで事も無げにこう言った。
「彼とは別れませんか? 寄生なんてやめてしまえばいいんです。僕ならあなたにきちんとした『家』を与えてあげられる。いまは駅前の3LDKのマンションにひとり暮らしですが、もちろんそこで一緒に暮らしてもいいし、結婚して子供ができたら郊外に戸建てを買うのもよくありませんか? ちょっとした自然があるところで子育てをするっていいと思うんですよ」
『家』。良くも悪くも家だ。わたしが遠い昔に失ってしまったもの、そして篤志に与えられているもの。
そこにはいずれ家族が増えて、わたしの孤独を埋めてくれる。きっとひとりがさみしいなんて言ってられなくなる。
「あの、わたしなんかのどこがいいんですか?」
「上手く言えませんけど」
「上手くなくていいです」
「……あなたがいると僕の世界がパッと色づいて明るくなる。おかしいですか? 繰り返しだった毎日が昨日と違う一日になる。そういう経験ってありますか?」
なんだか頭の中がちぐはぐになる。どう聞いてもありそうな口説き文句なのに、つい最後まで聞いてしまった。そしてそれに一言も返せない。笑えない。真摯な目でわたしを見ないでほしい。
わたしはそんなに彩り豊かな女ではない。これは確かだ。でも彼の口調はそんなわたしの考えを否定するような、真剣な語り口だった。少し怖くなるくらいに。
「それでわたし、しあわせになれるんでしょうか?」
「なれます。なってもらいます。僕はあなたをしあわせにします。あなたがそばにいてくれれば」
「知らなかった。しあわせの『青い鳥』って、本当に身近なところにいるものなんですね。見落としそうなほど」
「そうですよ、僕だってあなたみたいなひとがまさか、毎日通っている会社のすぐ近くにいるなんて気がつかなかった。僕たちは毎日すれ違うように生活してきて、目の前の『青い鳥』に気がつかなかったんじゃないですか?」
ひとつ大きく息を吸い込む。
そうだ、いつだって『青い鳥』は目の前に、足元にいるものだ。探そうとするのが間違いなんだ。
「ずいぶん簡単なんですね。しあわせってそんなに容易いものじゃないです。もしかしたらあなたにとってはそうなのかもしれないけど、わたしのしあわせはようやく手に入れた小さなものなの。それを手放すことはできません。良い返事をできなくてすみませんが」
「構いませんよ。そんなに簡単に釣れるひとだとは思っていませんから。僕は気長にあなたを口説くので、あなたは僕をふり続けたらいい。あなたが僕にしあわせを委ねてくれるまで、根気よく待ちますよ」
唐突に席を立った。わたしには彼のような余裕はなかった。
「待たないでください。わたしはあなたに傾いたりしませんから。バカにしないで。仕事の取引とは違うんです。わたしはそんなんじゃ落ちないから」
揺らぐ必要なんてなかった。
なのになんで心がこんなに揺れているんだろう。
確かに『家』も『家族』もほしい。両手から滑り落ちたものを取り戻したい。
でも誰とでもいいわけじゃない。
わたしは篤志と歩んでいくことを決めたんだ。篤志がわたしに温かいものを全部、与えてくれる。そして何もかも、分かち合いたい。
いつだってそばにいたいのは、そんなのは迷う必要がなく決まっている。
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