第16話 遊びじゃない

「疲れてるんじゃないの? 無理してるんじゃない?」

 ああ、さすがに今日のことはまったくなんでもないことという顔はできない。なんて言ったって、まぎれもない生まれて初めてのプロポーズだ。動揺が隠せない。

「大丈夫、無理はしてないよ。今日はお客さん多かったから、ちょっと疲れて足がむくんだだけ」

 立ち仕事だもんな、と篤志は言った。そうしてわたしの作った料理を口にする。


「疲れてる時は我慢しないで言って。ライン入れてくれれば弁当でも買ってくるよ。毎日仕事で疲れてるのに夕飯の支度までしてたら疲れるよ」

「大丈夫。お金がもったいないし。それになにより篤志に美味しいものを食べてほしいから作ってるんだよ。自分の楽しみのために作ってるの」

「その理屈はよくわかんないけどさ、『大丈夫』が無理してる証拠だって先生も言ってたじゃん。あとで足、マッサージしてあげるよ」

 その申し出ににっこり微笑む。篤志の表情が和らぐ。わたしの笑顔の裏側に隠したものを彼は見つけるだろうか?

 いや、そんなことはないはずだ。篤志はいつも忙しい。


 実際、わたしの帰宅はいつも八時半をゆうに過ぎていたけれど、それより前に篤志が帰っていることは最近ではほとんどなくなっていた。篤志も四年生になって本格的に『研究』が忙しいらしい。

 その『研究』というやつはいつでもわたしにはピンと来なかった。

 わたしの卒業した女子大は文系の学部しかなかったし、合コンに来るような男の子たちも法科やら経済やらで『研究』で忙しいような子はそこには来なかった。

 でもそれが篤志にとっていちばん大切なことだというのは理解しているつもりだった。


 毎日、急ぎ足で帰ってきてくれることに変わりはないようだったけれど、帰宅時間は徐々に遅くなっていた。

 その待っている時間を埋めるために、仕事から帰って篤志が戻るまでの時間は料理でもしていないと落ち着かなかった。相変わらずひとりでいると部屋の隅や空に広がる闇がわたしを侵食していこうとしていた。

 ひとりはやりきれなかった。それでも大切に想ってくれている篤志に迷惑をかけたくなかった。だからそんな日は安定剤を飲んで、薬が効いてくるまでぼーっとしていた。

 ぼーっとしていてもなにも問題なかった。わたしが少しくらいサボっても、彼の帰ってくる時間までには余裕で夕飯の支度ができた。


 そうして寝ようという時間になると、篤志は一組しかない布団にわたしを入れた。

 明日も仕事があるんだから早く寝な、とやわらかく髪を撫でてくれる。おやすみ、とダメ押しのように頬にキスをされてそうして明かりを消される。

 狭い部屋は、パソコンのモニタの光だけで照らされる。時折、カタカタとキーボードを打つ音やマウスをクリックする音が聞こえる。音が止んでいる時は篤志は画面に見入って考えごとをしている。

 わたしとは今日はもう話さないのに、パソコンと篤志の話し合いはなかなか終わらない。嫌な気分だ。はまるでお見合いをしているかのように見つめ合っている。

 そういう物理的な不規則な音が鳴る中、不本意にも薬が回って眠気がわたしをまあるく包む。意識が途切れそうになる頃、篤志がそっと背中側から布団に入ってきてわたしを抱きしめる。そのダイレクトな体温はわたしを安心させ、深い眠りへと導く。深く、深く。

 篤志が温めてくれるのは体だけじゃなくて、わたしの人生そのものだと思う。ああ、そうだと確信して眠りへ落ちる。


 あんなことがあったのにさも当たり前という顔をして二ノ宮さんは毎日、わたしの前に現れた。わたしも全力で顔を合わせない努力をする。用事がなくても十分間、トイレから出なかったり、本来は先輩から取るはずのお昼休憩を先に取らせてもらったりした。

 それでもたまには顔を合わせてしまって、そんな時は堂々と目を見て会釈をされてしまう。

 でも、だって、どうやって少しでも彼を知れと? わたしにはどこまで行っても、ふたりの仲は平行線のように見えた。


「岩崎さん、また来たの? 若いんだからすることがあるでしょう? こんなとこに来たって楽しいことはないよ」

「そんなことないよ。家でひとりでいるよりお店にいる方がずっと楽しいし。平塚さんだってわたしがいた方が何かと楽でしょう?」

「そりゃね、お客さんの多い時間なんかは助かるけど、休みっていうのは休まないと。岩崎さんは体弱いんだから無理したらダメよ」

 こんなに細い腕して、と二の腕をやさしく掴まれる。面接をしてくれたエリアマネージャーの計らいで、わたしは病弱だということになっていた。確かに間違いではない。ただ弱いのは体じゃなくて心だというだけだ。


 平塚さんを手伝って、裏でお茶の袋詰めをする。量りではかってシーリングをして賞味期限のシールを貼る。簡単な仕事だ。

 そろそろ五十本、というところで平塚さんから声がかかる。「ちょっと混んできちゃったから少しだけ接客、手伝ってくれない?」

 平塚さんは田島さんに比べてのんびりしている。なので、大量の客をさばくのが得意じゃない。心得ているのでエプロンもなしに店頭に立つ。


「いらっしゃ……」

 営業用の笑顔が顔に貼りつく。ふっと、彼の頭が下がる。わたしは休日とはいえ店員で、彼は客だ。ペットボトルにシールを貼って硬貨を受け取る。

「今日は私服ですよね。お休みですか?」

 平塚さんが返事をするように肘でつつく。オバチャンたちは間違っていて、わたしが二ノ宮さんと出かけるのを楽しみにしている。

「お休みならゆっくりお話しながら食事しませんか?」

「……お断りします。どんなふうに勘違いなさってるのかわからないけど、わたしはあなたとご一緒する気はないんです」

「うん、そうですよね。わかります」

「なら――」

「僕には一回のきっかけが大きいんです。申し訳ないけどあなたの理由を聞いている余裕がないんです。あなたをさらいますよ」


 無理に右手を掴まれる。男の人の力で引かれて転びそうになる。好きな女を力いっぱい引きずろうとするなんて、一体どうなっているんだろう。

 ……このひと、本気だ。

「ちょっと待ってください。痛いから。自分で歩きますから」

「少しは僕が遊びじゃないってこと、わかってくれましたか?」

「もっと穏便なやり方があるんじゃないですか? 痛いのはずるいです」

「そうですね、ずるいかもしれない。それでもいい、一緒にいる時間が五分でも増えれば」










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