第2話 こころ・しみしみ・肉じゃがと(後編)

 氷彗ひすいは銀色のスプーンで正確に計量し、だしと砂糖とみりんを混ぜ合わせた。その手つきは、試薬を用いる化学実験さながらだ。


「煮物の味付けは、だし、砂糖、みりんを8対1対1にします。八方だしと言って、和食では定番の味付けです」


 カップに混ぜ合わさった、深いカラメル色の八方だしをしげしげと眺めながら、うららは唇を尖らせた。


「だしと砂糖は聞き馴染みあるし、味も想像できるけど……この、みりん? ってどういうものなの?」

「みりんは、米や米麹を原料とした酒類調味料です。主な成分は糖とエタノール。砂糖が貴重品だった昔には、みりんを使って料理に甘さを加えていたらしいです」


 トントントンと小気味良いテンポと共に、氷彗はじゃがいも、玉ねぎ、にんじんを、綺麗に切り分けていった。


「ふぅん。じゃあ、今回も肉じゃがの甘味付けのため?」

「それもですが、こと肉じゃがに関して、みりんの役割は別にあります。それは、野菜の型崩れの防止です」

「型崩れって、具材がぶつかる以外に何か原因あるの?」


 うららの瞳がキラキラと輝いて、知りたいと迫ってくる。

 それと同期して、氷彗の鼓動も高鳴った。


「はい。型崩れが起きる主な原因は、野菜の細胞壁を構成する“ペクチン”という物質が、熱湯で煮ることで、分解されてしまうからです。みりんは二つの効果で、そのペクチンの分解を阻止してくれます」


 軽く油で炒めた野菜の上から、八方だしをかけ、中火で煮ていく。その後に、挽き肉をまんべんなく振りかけていった。

 出てきた灰汁を取り除いたら、落し蓋をかけて、じっくりふつふつと煮込んでいく。


「一つはエタノール。これは、そもそもペクチンが溶け出すことを抑制してくれます。そして、もう一つは……pHです!」

「ピーエイチ……って、もしかしてあのpH?」

「はい、酸性やアルカリ性の尺度を表す、あのpHです」


 水素イオン指数=potential of Hydrogen、通称pHは、水の状態を表す尺度のことだ。

 pHが低い水は酸性、すなわちレモン水のように酸っぱい性質を持ち、pHが高い水はアルカリ性、すなわち石けん水のようにぬるぬるとして苦い性質を持つ。

 普段、氷彗たちが飲んでいる水は、どちらにも属さない中性だ。


「まさか、料理でその用語が出てくるなんて」

「料理だからこそ、重要なパラメーターです。ペクチンは中性、つまりpH7付近の環境では、すぐに分解されてしまいます。でも、みりんの入った弱酸性、つまりpH5から6の環境では、分解されにくくなるんです!」


 一気に説明し終えて、喉がヒリヒリとした。

 額には、じんわりと汗が滲んでいるのを感じる。


 昨晩と同じく、ブレーキをきかせず、勢いと熱気で語ってしまった。

 しかし、後悔はない。

 むしろ、誇らしかった。

 なぜなら、目の前のうららが、とても嬉しそうにしていたから。


「すごい……本当にもう、化学の実験だ」


 うららが感嘆のため息を吐いていると、煮込み時間を知らせるタイマーが鳴ったので、氷彗はコンロのスイッチに手をかけた。


「ここで火は止めましょう」


 そう言って、落とし蓋をゆっくりと取り外す。

 すると、もわっと雲みたいに、芳醇な蒸気が浮かび上がってきた。


「だしのいい匂い……早速、テーブルに運ぶね!」


 鍋の取っ手を掴もうとしたうららを、氷彗は思わず引き止めた。


「ちょっと待ってください。だしは、まだ具材に染み渡っていません」

「そうなの? あんなに煮たのに?」


「だしは、煮ている時ではなく、冷ましている時に具材に染みていきます。圧力で考えれば、分かりやすいです。煮ている時、具材は温められ、中身の水分が出てくるので、外からのだしは具材へ入り込むことが出来ません。でも、冷ましている時は、具材の圧力が下がるので、抜けた水分量だけ、だしを吸収するんです」


「なるほど……直感じゃなくて理屈で詰めていくと、確かにそうだ」


 うららは納得して大きく頷く。


 これで、肉じゃが作りの工程は全て終了だ。

 もう話す内容が枯渇してしまうと、途端に氷彗は落ち着かなくなった。


「じゃあ、肉じゃが冷ましている間にさ、ラインのID、交換しない?」

「えっ!?」


 ***


 顔が熱くて、頭がぼんやりとしている。

 うららに促されなければ、そのまま一時間はぼーっと直立不動だったかもしれない。


「鳥見川さん、そろそろ食べないと肉じゃが、冷たくなっちゃうんじゃない?」

「あ……そ、そうですね」


 氷彗はっと我に返ると、深皿の上に肉じゃがを盛り付けた。ごろっと転がるじゃがいもは、浸った八方だしから分け与えられたような色味を帯びていて、しっかりと味が付いていそうに見える。


 ちゃぶ台でうららと向かい合うように座り、氷彗は手を合わせた。


「「いただきます!」」


 じゃがいもをぱくりと頬張る。すると、ホクホクとした食感の後に、たっぷり染みた八方だしが口の中いっぱいに広がった。醤油とみりんの甘じょっぱさに、だしのうま味が絡まって、何とも優しい味付けだ。

 パラパラと野菜の中に散らばった挽き肉は、ほどよいアクセントになって、だしとは違う甘みを主張してくる。


「このじゃがいも、ごろっごろしていてホクホク! それなのに、だしをたっぷり吸いこんでる! お肉と一緒によく噛むと、甘さとしょっぱさが絡まって、最高! 今までで一番の肉じゃがだよ」


 く〜〜っと、肉じゃがを噛み締めて、うららは身震いする。

 感情が建前のフィルターを通さず、そのまま伝わってくるような感想で、氷彗の顔はまた火照っていった。


「お、大げさです。レシピ通りに作れば、味は同じになりますよ」

「そりゃ、普通に食べても、すっごくおいしいだろうけど……でも、理由が分かると、もっとおいしく感じたんだ」


 最早はぐらかす逃げ道はなくなり、氷彗は大人しくうららの想いを受け止めた。

 胸のあたりが、とてもむず痒い。


「ありがとう、鳥見川さん。また料理するときは、色んなこと教えて」

「……はい」


 ※※※


 下宿のベッドに横になる。


 今日、目が覚めた時よりも、口元が緩んでいることが分かった。

 理由をつけようとすれば、いくらでもできてしまうけれど、自分だと脚色がついてしまいそうだ。

 そう思った氷彗は、この高揚の客観的な原因を求めて、スマートフォンの画面を見つめた。


〈塔山うららさんと、友達になりました〉


 氷彗の顔はさらに赤くなって、またパタパタと、足を波打たせた。 

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