第3話 おかゆ・とろとろ・酔い覚まし(後編)
❄❄❄
上の階から聞こえていたにぎやかな談笑も、すっかり収まった深夜零時。
研究棟の休憩室には、ぐつぐつと鍋の煮る音だけが静かに漂っている。
今日の料理は、至ってシンプルなものになってしまった。
それはもちろん、うららからのリクエストに合わせた結果なのだけれど、
「……あ」
ぼーっとしていたら、袋のジッパーを留め忘れ、あまったお米をパラパラとちゃぶ台の上にこぼしてしまっていた。
いけない、全然集中できていない。
ぶんぶんと、氷彗は首を横に振った。
いや……
いやいや……
いやいやいや……
気にしすぎ、大げさ。
試しにもう一度見てみよう。きっと何気ない会話の一欠片に見えるから。
氷彗は自分にそう言い聞かせて、ラインのアプリを開いた。
うらら【ほんとに!? ありがとう!】
うらら:大好きスタンプ
「~~~~~~~~~~~っ!!」
机の上に突っ伏して、吐き出しそうになった感情の粒を必死に飲み込む。
茹ったように頭が熱い。
ぐつぐつと聞こえてくるのは、本当に鍋の音だけだろうか。
こんな調子で、氷彗はまるで料理に集中できず、結局メニューは水で煮るだけのお粥になった。
どうかしている、と氷彗は顔を覆う。
こんなたわいもないことで、ぐらぐらするなんて。
たかがスタンプだ。言葉だって表層だ。
実際にうららがそうやって、抱きついてくることなんてありえない。
「おまたせぇ~~~~!」
不意に声が聞こえた。
振り返ると、うららがおぼつかない足取りでこちらに寄ってきていた。
こちらも挨拶をしようと、口を動かそうとした瞬間——
ぎゅぅっと、抱きしめられた。
瞬間、思考が木っ端みじんに吹き飛ぶ。
挨拶しかけた口が行き場をなくして、ぱくぱくと意味もなく動いた。
「あ、ああ、あ、あの、塔山さん?」
「えへへ~、鳥見川さんから、いい匂いがする~」
「……塔山さんからは、ものすごいお酒の匂いがします」
何となく状況を察した。新歓の席で、相当飲んだのだろう。
熱を帯びた頬はリンゴのように真っ赤になっていて、吐息からはツンとしたアルコールの匂いが漂う。
「大丈夫、ですか?」
「へーき、へーき……今日のごはんは、何だっけ?」
「軽いもの、と言っていましたから、シンプルにお粥を作ってみました」
「おぉ! お粥! 私、お粥大好きなんだ~」
そう言ったかと思えば、うららはちゃぶ台の上に散らばっていた米を一つまみして、口の中に放り込んだ。
ゴリゴリゴリと、いかにも噛み心地の悪そうな音が聞こえてくる。
「硬い……おいしくない」
「だ、だめです! それ、ただの米粒ですから!」
氷彗は慌てて、うららを流しにつれていき、口をゆすがせた。
うららには、明るくて頼りがいのある先輩としてのイメージを抱いていたが、酔うとこんな風になるなんて、思ってもいなかった。
壁掛けのタイマーを確認すると、あと少しで予定していた煮込み時間に達する。しかし、今のうららは、一緒にごはんを食べられそうにない状態だ。
「やっぱり、今日は戻って休んだ方がいいですよ」
「不思議だねぇ、お米って……水で煮込むだけで、どうしてあんなに食感が変わるんだろう?」
呼びかけてみるものの、うららの興味は料理の方にシフトしていた。
へべれけになっていてもなお、不思議の答えに心躍らせる純粋無垢な双眸は、キラキラと輝いてる。
「ねぇ、どうして?」
舌足らずな口調に加え、子供のような上目遣いで迫られると、氷彗は逆らえるはずもなかった。
ダメだと思いながら、唇が軽やかに動いた。
「それはですね、デンプンの状態が変わるからです!」
氷彗は袋から米粒を一つ取り出すと、うららの目線の高さに掲げてみせた。
「この米粒の中には、細胞があります。そしてその中に、デンプンが詰まっています」
「ほほぉ。そもそもさ、デンプンって、何なの?」
「デンプンとは、たくさんのグルコースという分子が、長い鎖状に繋がったものです。鎖が枝分かれすることなく、一直線に伸びたものをアミロース。鎖が枝分かれして、クラゲの足みたいな形になったものをアミロペクチン……と言います。乾燥した米粒では、このデンプンが結晶構造をとっているんです」
「へぇ、だから硬いんだ」
「その通りです。でも、70℃くらいからアミロースは水中に溶け出していきます。アミロペクチンは溶け出しませんが、水を吸って膨らみます。すると、結晶構造が崩れて柔らかくなるんです」
ピピピと、タイマーが煮込み時間を知らせた。
氷彗は鍋の蓋を取ると、お玉でそっとお粥をすくう。すると、立ち込める湯気の中から、水を吸ってぷっくりと膨らんだ白いお米が姿を現した。
お玉を傾けても、お粥はなかなか落ちない。とろみは十分だろう。
「すっごい! とろっとろだよ!」
「はい! とろとろになるのは、溶け出したアミロースのおかげです。さっき、アミロースは一直線の鎖の形をしていると説明しましたよね。それらが絡まり合うと、網のような構造になります。その網が、水分や他の分子の動きを妨げるんです」
氷彗はタッパーに忍ばせていた紅色の玉をつまむと、盛り合わせたお粥の上に置いた。
「最後に、梅干しを乗せて……完成です!」
隣から「よ、三ツ星シェフ!」と掛け声が上がり、ぱちぱちと拍手が奏でられる。
そこで氷彗は、うららが酔っぱらっていたことを思いだした。
早く休ませようとしたのに、まんまと乗せられてしまった。
しかし、出来上がってしまったものは仕方がない。
結局、氷彗はうららの手を引いて、ちゃぶ台へと座らせた。
「「いただきます」」
白く輝く雪原のようなお粥に、れんげをくぐらせ、口へと運ぶ。
含んだ瞬間、梅干しの酸っぱさで口いっぱいに唾液が溢れた。柔らかなお米は、とろりとして温かく、噛めば噛むほど甘味を増していく。
「ん? この梅干し……酸っぱいけど、甘い?」
「気付きましたか? 実は隠し味で、はちみつ梅干しにしてみたんです」
梅の果肉をぱくりと頬張ると、その酸っぱさに思わず身震いしてしまう。でも、塩やシソで漬けた梅干しに比べれば、随分と抑えられている。これなら、酸っぱさに臆することなく箸が進む。
「おいしい! お米を噛んだ時に溢れる甘さと、はちみつ梅干しの甘さが、とろとろの粥の中でまろやかに絡まって……いくらでも食べられそう!」
うららは、本当に胃もたれだったのか怪しいくらいに食欲旺盛で、あっという間にお粥を平らげてしまった。
「はぁ~、おいしかった!」
「よかったです。お粥は消化にも良いので、きっと体も喜んでいると思います」
何気なく放った言葉にうららは反応し、グイッと身を乗り出してきた。
「そうだ、消化! お米が柔らかくなる仕組みは分かったけど、どうしてそれで消化が良くなるの? パリパリのお米も、とろとろのお粥も、食べてるものは一緒でしょ?」
調理中には度々質問されてきたが、食後に質問をされたのは初めてだったので、氷彗は少しあっけにとられる。酔っている分、湧いてくる疑問に歯止めが利かないのかもしれない。
「消化が良くなる理由は、水を吸って膨らんだアミロペクチンを考えればわかります。塔山さん、消化はどんな風に行われるか分かりますか?」
「えぇと、確か酵素っていう分子が、食べたものにくっついて、分解してくれるんだっけ?」
「大体そんな感じです。つまり、酵素がくっつけるだけの表面積が必要なんです。アミロペクチン……クラゲの足が閉じていたら、酵素は外側にしかくっつけません。結果、消化が遅くなってしまいます。でも、クラゲの足が開いていたら、酵素は内側にもくっつくことができて、消化を早めることが出来るんです」
「ほえー」と気の抜けた声を漏らし、うららはその説明を満足そうに聞いていた。
目尻はとろんと垂れ、徐々に瞼が下がっていく。乗り出した体は、そのままぺたんとちゃぶ台に倒れた。
今にも寝言ってしまいそうな静かな声で、うららは呟く。
「やっぱり、すごく面白いし、おいしいね……
「へ?」と喉の奥から変な声が漏れた。
氷彗はすぐさま、うららを揺する。
「あの、と、塔山さん……今、名前?」
しかし、返って来たのは穏やかな寝息だけだった。
☀☀☀
「頭痛っ……あれ? もしかして私、ここで寝ちゃってた?」
こめかみを押さえ、うららは周囲を確認した。
研究棟の休憩室のようだが、ここにやってきた覚えはない。
というよりも、新歓の途中からの記憶は飛んでいた。
目の前には氷彗が座っており、何故か緊張気味にこちらを見つめている。
「と、塔山さん……私が誰か、分かりますか?」
目が合うなり、氷彗は変なことを聞いてきた。こちらに思い当たる節がないということは、酔っぱらっている間に何かよからぬことを言ってしまったようだ。
「鳥見川さん、でしょ? 大丈夫、酔いは覚めたよ」
この回答で間違いはないはずと、うららは確信していた。
しかし、何故か氷彗は大きくうなだれた。辺りに分厚い雲がかかったみたいに、どんよりと雰囲気が暗くなる。
「ちょっと、どうしたの鳥見川さん? 鳥見川さん?」
氷彗はますます活気を失っていくが、うららがその理由を知ることはとうとうなかったのだった。
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