第17話 門出・ほろほろ・鯛グラタン(前編)
こちらのお話は、
・二人がご飯を作って食べるだけのお話です。
・ファンタジー要素はありません。
・幽霊、あやかし要素はありません。
・ミステリー要素はありません。
また、科学的説明はあくまでスパイスです。
つまらなかったり、面倒くさければ、読み飛ばしてもらっても全然大丈夫です。
以上の点にご注意の上、お腹を空かせてお読みください。
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❄❄❄
カチコチと、左手首に巻いた腕時計の音がアパートの一室に響いている。
普段なら気付きようもない、蚊の鳴くような小さな音のはずなのに、今は気になって仕方がなかった。
多分、それは自分の注意が「時間」に向いているからだろう。
うららと一緒に過ごすことのできる、残り時間に。
「留学……」
ベッドの上で壁にもたれ、氷彗は独り言つる。
脳裏に蘇るのは飯塚が昨日言った内容だ。
あの時は、ただただ呆然として、詳しい内容は聞き取れなかった。しかし、うららが理学研究科のプログラムで海外に研究留学するということは、間違えようのない内容として鼓膜にこびりついていた。
思い当たる節は、ある。
先日、かき氷を作る前、学会シーズンではないというのにうららは忙しそうに発表資料を作っていた。
もし、あれが留学先の研究室で使うものだとしたら。
ぞわぞわと、背中に焦りが走った。
氷彗【飯塚先生から、留学されると聞きました。本当ですか?】
白く細い親指が、たどたどしくスマホの液晶を滑る。
うららとのトークルームに書き込まれたメッセージは、下書き状態から変わらず、送信ボタンが押されることはなかった。
その後、文章を変えてみるものの、書いては消しての繰り返しが波のように終わりなく続いていくだけだった。
実験のように愚直に探せども探せども、最適な言葉は見つからない。かけたい言葉ならいくらでも見つかるのに。
もし素直に尋ねて、「そうだよ」と一言あっさり返ってきたら——
受け入れたくない事実と一緒に、一方的な関係だと思い知らされたら——
そう思うと、怖くて勇気が出なかった。
氷彗 【うららさん。次の夜食は何かリクエストはありますか?】
結局、やっとの思いで送信できたのは、いつも通り料理についてのことだけだった。
返信はすぐに帰ってこない。それどころか既読表示すら付く気配がない。タイミングが悪かったのだろうか。
氷彗はスマホの電源を切った。
黒くなった液晶には、気持ちを押しつぶし、目を逸らした自分が映っていた。
これでは、何も変わっていない。
三年前の、あの時から。
机の上に視線を移すと、電話帳のように分厚くなった研究ノートが広がっていた。それは、目を逸らした気持ちの分だけ、忘れてしまった思い出の分だけ、膨れ上がっているような気がした。
もし、本当にうららが海外に留学して、ずっと会うことが出来なくなってしまったら、きっと同じように悲しみを感じる前に蓋をして、研究に没頭してしまう気がした。
痛みを思い出ごと刈り取って。
何を一緒に作って、食べて、語らったのかさえ、全部忘れて。
それだけは……ダメだ。
氷彗はほんの少しの勇気を振り絞って、トークルームに続けて打ち込んだ。
氷彗 【それと、夜食の後に、お話したいことがあります】
☀☀☀
かなり遅くなっちゃったなぁ……
非常灯でぼんやり緑色に照らされた研究棟を、うららは急ぎ足で移動し、休憩室に向かっていた。
誰もいなくなった研究室で荷造りをしていたはいいが、よりにもよってパスポートと航空券を本棚の裏に落としてしまうとは……なんとも情けない。
そのせいで今まで、一人必死に本棚の隙間に定規やら指し棒を突っ込んで、救出作戦を敢行していた。
おそらく傍から見たら、非常に間抜けな様子だったと思う。
「ごめん、氷彗。ちょっとバタバタしてて、メッセージ見るの遅れちゃった」
研究棟で唯一、明かりの灯っている部屋に着くなり、うららは手を合わせた。
氷彗がこちらに気付いて振り返る。すると、長い滑らかな黒髪が綺麗に渦を描いた。
気のせいか、一瞬、氷彗の肩が緊張したように震えているのが見えた。
「う、うららさん。こちらこそ、お忙しいときに……リクエストを聞いておきながらごめんなさい。今日のメニューはこちらで決めてしまいました」
「いいよいいよ。気付かなかったこっちが悪いんだし。ところでさ、メッセージにあった食後の話って……」
「鯛グラタンです!」
「へ?」
料理の時とは雰囲気の違う氷彗の大声が、うららの質問をかき消した。
「今日の夜食のメニューは、鯛グラタンです!!」
目蓋をぎゅっと閉じ、氷彗は続けた。
その話は、食後にお願いします——
言外に、そう必死に訴えてきているように思えた。
やっぱり、氷彗は何かを思い詰めている様子だった。
(中編へ続く。)
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