番外編

EX−l-1l おでん・失恋・昔話(前編)

こちらのお話は、


・二人がご飯を作って食べるだけのお話です。

・ファンタジー要素はありません。

・幽霊、あやかし要素はありません。

・ミステリー要素はありません。


また、科学的説明はあくまでスパイスです。

つまらなかったり、面倒くさければ、読み飛ばしてもらっても全然大丈夫です。

以上の点にご注意の上、お腹を空かせてお読みください。

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 199X年10月――


「――はぁっ、はぁっ!」


 当時、修士課程一年生だった飯塚桜は、肌寒い秋の夜道を走っていた。

 研究室からそのまま飛び出してきたので、手には何も持っておらず、白衣も着たままだ。

 キャンパスを飛び出し、人通りの多い繁華街を避け、閑静な住宅街へと逃げていく。

 別に自分の下宿へ急いでいるわけではない。走る方向はでたらめだ。そんなものを気にしている余裕は桜になかった。


 息を吸い込むと、刺すように冷たい空気が喉と肺を駆け巡り、胸が苦しい。

 でも、この苦しみはそれだけが理由ではないことを、桜は十分に理解していた。


「バカだ。私は……本当にバカだ」


 小刻みに震える唇から、情けない声が漏れた。

 瞳から何か熱いものがこぼれてきそうになり、とっさに空を見上げる。

 おかげで涙はこぼれなかったが、代わりに視界に映るオリオン座は情けなく揺らめいていた。


「バカだ……バカだ……」


 何度も何度も自分の愚かしさを繰り返す。

 進学してから今日までの思い出が色褪せていくのを、桜は感じていた。


***


 飯塚桜はこの春、名知大学の大学院に進学した。

 同じ大学からの内部進学ではなく、地元の大学からの外部進学だった。


 学部で所属していた彼女の研究室は、ボスの定年が迫っており、桜の大学院修了まで面倒を見切れないということだった。

 そこで、ボスは所縁のあった名知大学の研究室を桜に紹介してくれた。


 その研究室の研究分野は、桜の取り組んでいたテーマとマッチしていたが、規模はとても小さかった。

 なにせ、メンバーは教授と助教を除けばポスドク(※)と秘書しかいない。しかも、教授と助教は別の研究所にも籍を持っていて、週の半分はそこで作業をしていた。


 院試をパスし、晴れて研究室の一員となった桜だったが、教授と顔を合わせたのは事務手続きの数回きりだ。


 実質的な研究指導者は、ポスドクの田宮だった。


「小さいラボですけど、その分装置の取り合いも起きませんから、それがここのウリですね。秘書さん以外で、このラボに仲間ができて嬉しいです。僕も初めての指導で、至らないところもあるかもしれませんが……よろしくお願いします、飯塚さん」


 研究室の案内を終えた田宮は、にこりと穏やかな笑みを浮かべた。


 田宮は年齢の割にとても落ち着いている青年だった。イメージとしては温厚な大型犬に近いだろう。


 ポスドクと言えば常に生存競争の厳しい環境下に置かれているので、もっとアグレッシブな性格かと桜は思っていたが、実際は真逆だった。

 だが、研究に対する姿勢は積極的で、メインテーマの他に、生体分子を対象にしたコンピュータシミュレーションもサブテーマとして取り組んでいた。


 桜が彼に抱いた最初の印象は「話しやすい人だな」という、その程度のものだった。

 そして、その思いが変化して深まっていくのに、さほど時間はかからなかった。


 環境がそうさせたという面は確かにあっただろう。


 院生は学部生のように講義が少なく、おまけにほとんどが内部生だ。既に培われた4年間でグループは出来上がっており、新しい友達を作ることはできなかった。

 当然の成り行きとして、桜の人間関係は研究室内でのものが大半になっていった。


 加えて、桜にとって一人暮らしは大学院が初めてであり、慣れない場所での生活は不安だらけだった。

 それゆえに、頼れる存在には特別な感情を抱きやすかったのかもしれない。


 ともあれ、桜は前期が終わる頃には、田宮への好意を募らせていた。


 これまで恋愛をしてこなかった桜にとって、湧きあがってくる感情はどれも初めてのもので、どうすればいいのか全く分からなかった。

 無性にうれしくなったり、恥ずかしくなったり、言葉に詰まってしまったり……

 実験のように制御できない衝動に四苦八苦させられながら、しかし悪い気はしなかった。


 むしろ、ずっと研究に没頭していた生活に色がついて、満たされたような心地だった。

 学会への移動中には、初めて恋愛指南書を開き、告白するシチュエーションなどを熱心に考えていた。


 しかし、そんな甘い妄想は後期が始まってすぐに終わりを迎えた。


「あの……田宮さん。今から、一緒にご飯でもど、どうでしょうか?」


 研究の進捗報告とディスカッションを終え、田宮が帰り支度を始めたとき、桜は思い切って話しかけてみた。

 たどたどしくて上ずった声は、発音も怪しくちゃんと伝えられたかどうか不安だった。


 田宮は、困ったように笑みを浮かべた。


「お誘いありがとうございます。でも、ごめんなさい。今日はこれからちょっと用事があるので」

「それなら、全然大丈夫です。本当に」


 桜が落胆していると、デスクの上で荷物をまとめていた田宮が鞄を滑らせた。

 バラバラと、論文や文房具が盛大に床へと撒き散らされる。


「あっ!」

「手伝います」


 田宮が急いで拾い始めるのを見て、桜も力になろうとその場に屈んだ。

 撒き散らされた中身の大半は、A4紙とボールペンだった。

 しかし、その中に一つだけ異彩を放つものがあった。


 紺色のリボンで蝶々結びを施された、白い箱である。

 控えめに刻印されたロゴマークは、桜でも知っている有名な宝石ブランドのものだった。


 それだけで、家族や友人への贈り物ではないと直感的に悟った。

 ドクンと、不安が脈打った。


「これって……」

「あはは、情けない。見られてしまいましたね」


 桜から箱を受け取ると、田宮は大切そうに袋にしまった。

 その優しい手つきから、桜は察しがついてしまった。


「彼女さんへのプレゼント、ですか?」


 聞いたところで自分が傷つくのは明白なのに、それでも桜は確かめずにいられなかった。

 田宮は一瞬驚いたように眉を持ち上げたが、すぐに観念して穏やかに語りだした。


「えぇ。高校の頃からの仲で、そろそろ籍を入れようと思いまして。これを落としてしまうなんて、やっぱり緊張しているのかもしれません」

「…………そうですか」


 か細い息に乗せて、桜は呟く。


 今にも熱い感情が、湧き出してしまいそうだった。

 それを桜は必死で押さえつけ、田宮に早く退室してもらうために無理矢理口の端を吊り上げた。


「頑張ってください、田宮さん」


***


 どれくらい走っていたのだろう。

 気付けば見慣れない神社と公園が面する坂道に差し掛かっていた。


「――はぁっ……はぁっ」


 オリオン座は雲がかかってもう見えない。

 それどころか、しとしとと秋雨まで降り出してきた。


 冷えた肌が滴に舐められると、さらに体温が奪われていく。

 しかし、桜にとってはもうどうでもよかった。


 結局、桜は傘も差さないまま、とぼとぼと来た道を戻り始めた。


「……あれ、飯塚さん?」


 不意に、暗闇の中から名前を呼ばれた。


 誰だろうと一瞬だけ桜は考えたが、その必要はなかった。

 この地域で自分の名前を知っている人間なんて、研究室以外ありえない。


 そして、声の主が女性という点で候補は一人に絞られた。


「塔山、さん?」


 こちらに駆け寄ってきて傘を差し出してくれたのは、桜の研究室の秘書。

 塔山のどかだった。


(後編へ続く)


※ポスドク

 ポストドクター。博士号取得後に任期制のポストに就いている研究者。

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