第24話 読書・天ぷら・相対論(前編)

「これでどこにも逃げられませんよ……せぇんぱい」


 放棄されて久しい旧校舎の一室に、甘い声が跳ね返る。

 真夜中の追いかけっこの末、ようやく私は先輩を捕まえた。


「も、もう許して」


 目の前で震える先輩の姿は、まるで生まれたての子鹿のようだ。

 抵抗を試みる四肢は既に枷をかけられ、壁から飛び出した鉄杭に括り付けられていた。

 普段はクールさを演出している薄化粧も、今は涙でぐちゃぐちゃに乱れている。

 

 あぁ……本当に、この世の誰よりもかわいくて愛おしい存在。

 背中にぞくぞくとした快感を覚え、私は先輩へと顔を近づける。


「ふふ、いじらしい顔。こんな先輩の顔、学園の誰も見たことないんだろうなぁ」

「ひっ!」


 恐怖で歪む先輩の声が私の鼓膜を震わせる。

 それだけで、内に眠る嗜虐心はますます煽られてしまった。

 いいなぁ、と私は舌を唇に這わせる。


 もっと歪ませたい。もっとめちゃくちゃにしたい。

 その白くて瑞々しいキャンバスを、私の黒でもっともっと汚したい。


「近くでもっと見せて下さい。誰にも見せたことのない顔や声……そして感情を」


 先輩のさらさらとした髪に指をかける。

 指は耳殻、頬、うなじの輪郭を滑り、そして鎖骨へと下がっていった。


「や、やめて」


 聞こえた上でその言葉を無視する。

 私は先輩のスカートのプリーツを摘まみ、そして——


 ❄❄❄


 バチン——

 生協ラウンジに、何かを叩きつけたような乾いた音が響く。

 周囲の会話が一瞬途切れ、ある一点へと注がれた。

 その中心には、窓際の席で本を読む氷彗がいた。

 

「と、とんでもない作品を買ってしまいました……」


 わなわなと震えながら、氷彗は手に持っていた表紙を見返した。

 タイトルと作者を再確認し、買い間違えではないことを悟る。


 この作者はデビューしてからずっと、心温まるライトミステリを書き続けていた。ほっこりする読後感と柔らかい文体が魅力的で、ファンも多い。氷彗もその一人だ。

 この秋、二年ぶりの新作が発売されるということで、今か今かと楽しみにしていたのである。

 しかし、今回の読書体験が氷彗にもたらしたのは「癒し」ではなく「驚愕」の二文字だった。


 ジャンルはいつものミステリと思われたが、途中からサスペンスの様相を呈していった。人間関係がドロドロしていく展開や、猟奇的な登場人物の存在など、シリアス度もかなり高めである。

 さらには女性同士の「あんな」シーンや「こんな」シーンが詳細に描写されており、氷彗の脳はとっくに限界を迎えていた。


「面白かったら読書マラソンに参加しようと思いましたが……さすがにこれはお勧めできませんね」


 特に、あの人には……

 氷彗が頭の中である人物を思っていると、狙い澄ましたかのように背後から呼びかけられた。


「ひーすいっ! 何読んでるの?」

「う、うりゃりゃさん!?」


 上擦った声がラウンジに響きわたり、再びこちらへと視線が集中する。

 氷彗は慌てて口元に手を添えた。


「し、小説です……他にも、色々」


 昼休みにばったり出くわしたうららは、ブラウンのスウェットに身を包まれ、暖かそうな格好をしていた。

 「ここいい?」と、彼女は椅子を引いて隣に座る。肩口をすっぽりと覆う髪は、明らかに夏より伸びていた。


 氷彗は手に持っていた小説を隠すように、他の本が入った紙袋をテーブルに置く。


「お、ほんとだ。結構入っているね。そこの生協書店で買ったの?」

「はい。ちょうど今、秋の読書キャンペーンをしていて。生協加入者はほとんどの本が2割引で買えるんです」

「2割引ぃ!? いいこと聞いた。私も欲しかった参考書、後で買い足しておこっと」


 お昼と思しきベーグルを頬張りながら、うららは窓から書店の方向を眺めていた。


 よかった、と氷彗は胸をなで下ろす。

 この小説への関心はなくなったようである。


「うららさんは、何か読んだりしないんですか?」

「小中学校の頃は読んでたけど。読書感想文の宿題とか、朝読書の時間もあったし。でも、大学……とくに院に入ってからは参考書以外ほとんど読めてないかも」


 昔から追ってるマンガとかは読んでるけどね。

 うららは最後に、そう付け足した。


「そう、ですか」


 うららのことを知れて嬉しいような。

 自分の趣味を共有できなくて悲しいような。

 そんな複雑な気分である。


「氷彗は他に何の本買ったの?」

「えぇっと……ブルーバックスと料理本、あとは伝記系の読み物を一冊です」

「へぇ、伝記とか読むんだ。ヘレン・ケラーやアンネ・フランクとか?」


「……気になりますか!」

「ひ、氷彗?」

「私が読むのは圧倒的に……物理学者の伝記です!」


 いけないと頭のどこかで思いつつ、氷彗は自制が効かなかった。

 科学史の話題は、料理以外で数少ない氷彗のスイッチだったのである。

 うららはそのスイッチをピンポイントで押してしまった。


「特に好きなのは19世紀から20世紀にかけての物理学者の生涯ですね。シュレディンガー、ハイゼンベルグ、ボーア、パウリ、ファインマン……二度の大戦で混沌とする世界情勢の中、量子力学と相対性理論が産声を上げて発展し、悲しくも戦争に利用されてしまう流れは、誰の視点から読んでも心に来るものがあります。そんな世界の理不尽に翻弄されながらも、真摯に議論と追求を重ねていく物理学者同士の友情は、もう……」


「わ、分かった分かった! 今度ゆっくり聞かせてよ。ところで、今日買ったのは?」

「そうでした。これです」


 ガサゴソと紙袋が音を立て、一冊の本が取り出される。

 ハードカバーの表紙には、モサモサの髪型と髭が特徴的な物理学者が写っていた。

 研究者と言えば、おそらく誰もがこの人物を思い浮かべることだろう。


「この人って……アインシュタインだよね?」

「はい。かのアルベルト・アインシュタインです。相対性理論で有名な」


 こちらの説明に、うららは反射的に顔をしかめた。


「おぉ……なんか、めちゃくちゃ敷居高そう」

「そんなことないですよ。アインシュタインの伝記ではありますけど、この本はほとんど彼の旅行に焦点を当てた内容になっていますから。百年前の世界を旅した気分になれて、純粋に面白いです」


 うららの表情がわずかに明るくなる。

 視線がこちらから本へと移っていった。


「百年前の旅行記かぁ……そう言われると興味あるかも。ちょっと中見てもいい?」


 ぺらぺらと最初の数ページをめくる。新品の紙が奏でるこの音は、電子書籍では味わえない感覚だ。

 フォントは大きくて見やすく、写真も豊富で初心者にも読みやすい形式だった。

 うららが黙々と読み進める姿を見て、氷彗は内心小躍りしたい衝動に駆られていた。


「初めて知った……アインシュタインって日本に来たこともあるんだ。このモノクロ写真に写ってるのって、舞妓さんだよね」

「多分、京都で撮ったものでしょうね。アインシュタインは40日近くの日本滞在中に、仙台から福岡まで回ったらしいです。ノーベル賞を受賞したのはちょうど日本への渡航中だったので、どこに行っても熱烈に歓迎されたとか」


 ふむふむとこちらの解説を聞いていたうららは、開かれたページのある箇所に目を丸くさせた。


「こ、これは!」

「どうしました?」


 ページに乗せられた指先を視線で追う。

 「コラム」と称されたそこには、薄いトーンがかけられていた。フォントも本文の明朝体から、柔らかいゴシック体になっている。

 そのコーナーに貼られた2枚の写真を、うららは指さしていた。


 1枚は料亭を写したと思しきモノクロ写真である。アインシュタインと友人がお猪口を摘み、和気藹々と語り合っている瞬間を切り取ったものだ。

 もう1枚はカラー写真で「当時を再現した料理」という説明文が入っていた。


「海老の天ぷら、ですね?」

「アインシュタインの大好物なんだって! 意外……だけど、すごくおいしそう」


 きらきら瞳を輝かせて、うららは唾液を飲み込んだ。

 手に持ったベーグルはいつの間にか半円状になっており、どことなく反った海老の姿を彷彿とさせた。

 彼女の食欲が無意識に象ったのだろうか。


「ねぇねぇ、氷彗」

「分かりました」


 うららが何を考えているのかは、火を見るよりも明らかだった。

 普段より早く決まったメニューを、氷彗は高らかに宣言する。


「今日の夜食は、アインシュタインの天ぷらにしましょう!」


(後編へ続く。)

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