第4話 うれし・香ばし・手前味噌(後編)
☀☀☀
火曜日の昼下がりのことである。
「鳥見川さんて、肌綺麗だよね」
「え?」
研究棟の自販機コーナーで、氷彗とばったり出くわしたうららは、そのまま雑談に興じ、いつの間にかそんな話題を振っていた。
我ながらセクハラじみた言い方になってしまったが、以前からずっと気になっていたのだ。
紅の豚は、夜更かしは美容に良くないと言っていた。それは、うららも身に染みて感じている。
最近、化粧のノリは良くないし、鏡を見れば、顔色が悪いことは嫌でも分かる。後者は、査読中の論文による精神的な影響かもしれないが。
隣に佇む氷彗は、うららと似たような生活サイクルを送っているというのに、まるで肌の艶やかさが違っていた。
「すっごい化粧品とか使ってるの? それとも、エステに通っているとか……」
「い、いえ、そんなことない、です。どうしてですか?」
「だって、今の鳥見川さん、すっぴんでしょ?」
「はい、一応、有機系の実験があるときは、落としてくるように言われているので」
やっぱり、とうららは頷く。
実験系の研究室には、化粧禁止のルールが存在する所もある。それには、取り扱う薬品の蒸気が、化粧品と反応して肌に悪影響を及ぼすという理由があるからだ。
「でも、鳥見川さんの肌は白いし、潤いもありそうだし……うーん、ちょっと触ってもいい?」
「——っ!? ど、どうぞ」
しどろもどろになりながら、氷彗はきゅっと瞳を閉じた。
いやいや、そんな緊張しなくても。
別に、唇を奪うわけじゃないんだし。
苦笑しながら、うららは氷彗の長い髪をかきあげると、親指と人指し指の腹で、その頬に触れた。ぴくん、と氷彗の肩が震える。
「やっぱり、私の肌より明らかにすべすべもちもちしている」
「……多分それは、私が毎日、味噌汁を食べているからだと、思います」
顔を真っ赤にさせながら、氷彗は答えた。
「味噌汁? 味噌汁って、そんな効果あるの?」
「はい。発酵過程で生成される、グルコシルセラミドという分子を摂取することによって、肌の角質層の水分が保たれ、保湿効果につながるのだと言われて……い、ま、す」
不自然に言葉が途切れる。
うららは、自分の指がまだ氷彗の頬に触れていることに気付いた。
「あぁ、ごめんごめん、ちょっと触りすぎだったね」
「いえ、その……別に大丈夫です。むしろ……」
氷彗は何か言おうとしたが、慌てて両手で口を覆った。まだ、味噌汁についての豆知識があったのだろうか。
しかし、いい事を聞いた。
うららはニッと笑顔を作って、氷彗に呼びかけた。
「ねぇ、鳥見川さん! 私、今日の夜食は、味噌汁がいいな」
研究棟の夜食は、普段なら氷彗が決めているし、こちらが注文する場合も「お肉系」とか「さっぱりしたもの」といったアバウトなものばかりだった。
なので、具体的な料理名でリクエストするのは、今回が初めてだ。
それが関係しているのか、氷彗はやる気に目を輝かせていた。
「はい、わかりました!」
☀︎☀︎☀︎
そんなわけで、その日の夜食は、ご飯と味噌汁という、スタンダードなものに決定した。
深夜、研究棟の休憩室にやってきた氷彗は、片手にタッパーを握っていた。中身は、茶色い粘土のような味噌が詰まっている。
「へぇ、タッパーに入れて保存しているんだ」
何の気なしに放ったこちらの言葉に、氷彗はばつが悪そうに答えた。
「あの……この味噌は、市販のものじゃなくて、その、作りました」
「……へ?」
一瞬の空白の後に、驚いてうららは叫ぶ。
「作ったぁ!? ってことは手前味噌!? もしかして、鳥見川さんの実家って味噌屋さん!?」
「い、いえ。これは、単に趣味で作ってみただけで」
こちらの熱気に圧倒されて、氷彗はぐるぐると目を回す。
「煮て潰した大豆を、米麹と塩に混ぜこねて、タッパーの中に保存しておけば……一年くらいで発酵が進んで、こんな風になるんです」
キッチンの作業台へと移り、ボウルへと味噌を移す。確かな粘度と、豊かな風味。スーパーに売られているものに比べても、何ら遜色ない。
「へぇ。時間はともかく、そんな手軽に作れるんだね」
「興味が、あったんです。米デンプンはアミラーゼによって、ブドウ糖やオリゴ糖へと分解されて、大豆タンパクはプロテアーゼによって、ペプチドやアミノ酸へと分解される……味噌の発酵って、言い方を変えれば一年越しの化学反応なんです。どうしても実験したいなって」
なるほど、そう言われてみれば面白いかも……
うららに流れる、学徒の血が騒いだ。
「では、作っていきます」
氷彗は裾を捲ると、胸の前で小さく拳を握って、調理を開始した。
「味噌は、水分が少なくて溶けにくいので、いきなり鍋で溶かそうとすると、ムラが出来てしまいます。なので、あらかじめ少量のだしで、ボウルに溶いておきます」
だしと味噌が溶け合うと、深い香りが鼻孔をすり抜けていき、口の中で涎が溢れる。
うららは唇をつぐんで、ぐっと我慢した。
だしの入った鍋が温められると、ネギ、ワカメ、油揚げが投入されていく。
ふつふつと音がしてきた所で、氷彗はコンロのつまみに手を添えた。
「そして、味噌を投入する直前に……火を消します!」
「それは、どうして?」
待っていましたと、興奮気味で氷彗は解説してくれた。
「味噌汁の香りを、保つためです! 味噌の豊かな香りは、酵母菌が大豆の脂質を分解してできる、脂肪酸エステルのおかげです。でもこれは、90℃以上になると揮発してしまいます。だから、沸騰する直前に火を止めて、味噌を入れるんです」
先ほど、だしで溶かしておいた味噌を、鍋へと注ぎ込み、全体を混ぜ合わせる。
透明だっただし汁は、たちまち淀んで、鍋の底が見えなくなった。
「完成です!」
氷彗と同じタイミングで、炊飯器もご飯が炊けた事を知らせてくれた。
ちゃぶ台に白米と味噌汁が2人分並ぶ。
いかにも日本の朝ごはん、という気がした。
「それじゃあ、いただきます!」
氷彗と鏡合わせに手を合わせて、うららは箸を取った。
まずは大本命の味噌汁だ。
お椀を口元に運び、香ばしさを堪能してから、温かい汁をわずかにすする。
じんわりと熱が伝わっていくように、滋味深い味噌の風味が、舌と鼻孔へと広がった。
これが、一年ものの化学反応の味。
「しょっぱさと酸っぱさの後ろに、旨味も甘みもちゃんといて、複雑だけど……まさに味噌! って感じの味がするよ!」
今度は具と一緒に食べてみる。
舌触りの良いワカメに、ぷるんとした角切り豆腐。小さくスライスしたネギのシャキシャキ感が、アクセントになって口の中が楽しい。
油揚げは、たっぷりと汁を吸っていて、噛むたびに口の中で、じゅわわっと溢れてくる。
時に顎をせわしなく動かし、時に感嘆の吐息を漏らし、うららはきれいさっぱり味噌汁を食べ終えた。
「おいしかったですか?」
「うん! 驚いたよ。市販の味噌と比べて、味も香りも違うんだもん。私、これなら毎日、食べたいな」
そうすれば、自分も氷彗のような肌になるかな。
満足感の中、そんなことを考えていたら、氷彗は興奮気味に身を乗り出してきた。
「つ、作ります。味噌も、味噌汁も!」
☀☀☀
そうして、うららの回想は終わった。
にまにまと表情を緩めて、自分の頬に指を添える。
なるほど確かに、心なしか柔らかくなったような気もしないでもない。
「そっかぁ! 凪がそう言うってことは、やっぱり効果あったんだ」
うららがそうして味噌汁効果に酔いしれているのを、凪は訝しむ。
「どうしたの? 何かいいことでも思い出した?」
「まぁね! 最近、毎日味噌汁作ってくれる人が出来たから!」
次の瞬間——
凪は目を剥いて、ブハッと、炒飯を吹きこぼした。
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