第5話 ムニエル・卓球・キムワイプ(前編)
こちらのお話は、
・二人がご飯を作って食べるだけのお話です。
・ファンタジー要素はありません。
・幽霊、あやかし要素はありません。
・ミステリー要素はありません。
また、科学的説明はあくまでスパイスです。
つまらなかったり、面倒くさければ、読み飛ばしてもらっても全然大丈夫です。
以上の点にご注意の上、お腹を空かせてお読みください。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
❄❄❄
休日の夜のこと。
氷彗が自室で本を読んでいたら、スマホが震えた。
うらら【鳥見川さん……ちょっと助けてくれる?】
うらら【(´;ω;`)】
氷彗 【どうされたんですか?】
うらら【色々、説明省くんだけど】
うらら【面倒くさい話で、申し訳ないんだけど】
うらら【目の前にいる友達が……どうやら変な誤解をしたっぽくて】
氷彗 【変な誤解、ですか?】
うらら【それを解くのに、どうしても鳥見川さんの写真が必要で】
うらら【ここに貼ってもらったりとか、できないかな? 】
氷彗 【研究室の集合写真でよければ……】
氷彗 【LINE_XXXXX.jpg】
氷彗 【これで、どうでしょうか?】
うらら【ありがとう! 助かった!!】
うらら【このお礼は、きっとするから!!】
画面越しから歓喜の声が聞こえてきそうなメッセージを最後に、うららは大人しくなった。
一体何だったんだろう。
それに、変な誤解って。
引っかかる点は残るが、しかし今更だ。
うららは画面越しから離れてしまったので、質問してもしばらく返って来ないだろう。
一人ぼっちの静かな休日に、突然訪れた賑わいは、夕立みたいにすぐ通り過ぎてしまった。
氷彗はスマホを閉じようとして、でもやっぱり気になって、メッセージを遡る。
目の前にいる友達——
その言葉に、目が止まった。
それは、当たり前だが、氷彗のことではない。
きっと、昔からの友達だろう。
少なくとも、氷彗よりは長い付き合いのはずだ。
休日に、昔からの友達と会う。
不思議な点も、不自然な点も、不可解な点もない。
しかし、胸は小さい棘で突かれたみたいだ。無意識にため息が漏れて、視界の色味が満遍なく暗くなる。
身体中に、ドロリとした何かが流れている感覚だった。
そこには、いろんなものが混じっている。
有り体に名前をつけるとすれば、嫉妬や悔しさ、不安や不満といった類のものだが、どれも正確ではない。
しかし、いずれも黒くて、粘っこい感情なのは確かだった。
そんな自分を理性の視点から見下ろしてみると、矮小で醜くて、自己嫌悪の色も混じってくる。
いけない……
氷彗はぶんぶんと頭を横に振って、嫌な思考を追い出した。
気を取り直そうと、来週の夜食のメニューを考え始める。
すると再び、スマホが震えた。
うららかと思って慌てて飛びついたが、今回は違っていた。
研究室からの全体メールだ。件名には「研究室対抗スポーツ大会のお知らせ」とあった。
❄❄❄
週が明けた月曜の23時。
世間では、既に夜も更けた認識かもしれないが、いつも夜食を食べている時間より少し早い。
暇を潰している間、入念に下ごしらえでもしていようかと思っていた氷彗だったが、休憩室には、既にうららが待っていた。暖色系のニットに、黒のパンツを合わせていて、動きやすそうな格好である。
何かの作業をしていたらしいが、御座のちゃぶ台で開かれたマックが、何ともミスマッチであった。
「お、鳥見川さん、今日は早いね」
こちらに気付くと、うららは大きく手を振った。
その無垢な所作に、氷彗も応えようとしたけれど、どこか恥ずかしくて、胸の前で小さく手を振る。
「解析が、キリのいいところまで終わったので……塔山さんは?」
「私? 私はちょっと雑用をねぇ」
くるりとマックを回して、うららはディスプレイをこちらに見せる。
映し出された表計算ソフトの内容は、どこかで見た記憶があった。
「これ、スポーツ大会の準備ですか?」
先日送られてきたメールの内容を思い出した。
このスポーツ大会は、研究室間の交流を目的としたもので、学生は何かしらの競技に出るのがしきたりだ。
「そ、今年は私の研究室が、運営を任されたから。いくつか私がやってるの。日取りや場所取りの設定……あとトーナメント表作りとか?」
それって、ほとんど全部じゃ……
同じ研究室の後輩指導や、ティーチングアシスタントに加えて、無給で働きすぎではないかと心配になる。
「鳥見川さんは、何に出るの?」
聞かれて、少し顔が赤くなる。
というのも、氷彗に割り当てられた競技というものが、少し変なものだったからだ。
「え、えぇと……キムワイプ卓球、です」
「おぉ! 当たりだ!」
「当たりでしょうか? この競技」
氷彗の声には、困惑が帯びていた。
キムワイプとは、実験器具の汚れをふき取るティッシュのようなもので、理系の学生なら、一度は目にする代物だ。大抵キムワイプは、緑色の立方体の箱に入っている。
誰が最初に始めたのか定かではないが、その空箱をラケットにして、一つのスポーツが生まれた。
それが、キムワイプ卓球である。
この研究室対抗スポーツ大会は、ソフトボールやマラソンなど、至って一般的な競技で構成される中、何故かこの異端なスポーツも混じっていた。
氷彗はそもそも、このスポーツ大会の参加に後ろ向きだったのだが、駄々をこねるわけにもいかず、結局、体力的に楽そうなことと、経験上まだできそうという理由で、しぶしぶこの競技を選択したのだった。
「まだ夜食にはちょっと早いし、ちょっとやってみない?」
ぱたんとマックを閉じて、うららからそんな提案がなされる。
料理以外の何かをするということに、氷彗の胸が躍った。
しかし——
「い、いえ私は……」
臆病が顔を覗かせて、とっさに断りの言葉を紡いでしまう。
こういう所は、昔から本当に、情けない。
「そっかぁ。うちの研究室の後輩も、知らないみたいだし。修士の頃は凪……あぁ、昨日ラインで言ってた友達ね……アイツと一緒によくやってたんだけどな」
「やります」
「え?」
相転移のような意見の変わりっぷりに、うららはぽかんと唇を開ける。
それは、当の氷彗も同じだった。
口を両手で押さえてみるものの、後の祭りである。
今の言葉は、ほとんど無意識に、背中を押されて吐き出したのだ。
おそらくは、嫉妬という感情に。
❄❄❄
カコン、カコンと夜の研究棟で乾いた音がリズミカルに響き渡る。
ゼミ室の長机を卓球台に、参考書をネットに、そしてキムワイプの箱をラケットに見立ててラリーを繰り返していると、それなりに卓球をしているように思われた。
キムワイプ卓球が通常の卓球と最も異なる点は、ラケットにラバーがついていないことだ。
おかげで最初は打ち返しの加減が分からず、しばしばコースアウトに陥った。しかし、何度かラケット、もといキムワイプの箱を振っていると、だんだんと昔の感覚が思い出されてきて、ラリーが続くようになる。
「そうそう、飲み込みが早いね」
「そう、でしょうか?」
「うん! 鳥見川さん、才能あるよ。これなら、優勝も狙えるって!」
ニッとうららが破顔すると、口の端から白い歯が覗いた。久々にキムワイプ卓球の相手を見つけて、嬉しいのかもしれない。
だが、そんな風に期待されると、むず痒い反面、申し訳ない気分にもなる。
何だか、ずるしたような気がして。
「隠していたわけではないんですけど」と前置きしてから、氷彗は白状した。
「実は私……高校の頃、卓球部だったんです」
「えっ、そうなの!? めちゃくちゃ意外!」
「何部だと思っていたんですか?」
「そりゃ、調理部一択」
なるほど確かに、うららならそう思うのも仕方ないだろう。
氷彗自身も、高校は調理部に入りたかったのだが、不幸にも入学前に廃部になっており、その選択は叶わなかったのだ。だから、卓球部を選んだのは、完全に何となくである。
「うーん、やっぱり、スポーツやってる鳥見川さんは、イメージつかないや」
長机越しに、うららからまじまじと視線が注がれる。
唇をツンと突き出した表情からは、不安と不満が入り混じったような色が伝わってきた。それはつい先日、自分が抱いたものとよく似ていた。
「一緒に夜食を食べるようになってから、鳥見川さんのこと、ちょっとは知ったつもりでいたんだけど……全然知らなかったんだね」
うららの言葉に、氷彗はハッと息を飲んだ。
ドロドロした感情に、ぴたりと名前がつけられる。
とどのつまり、気に入らなかったのだ。
自分の知らない、うららがいるということに。
そして、どうやらそれは相手も同じようだった。
引っかかりが腑に落ちると、一緒に空腹感も落ちてくる。
氷彗とうららの腹の虫が、同じタイミングで鳴いた。
「運動したらお腹すいちゃった」
「そうですね」
今までの悩みがつまらないことのように思えて、氷彗はクスクスと笑った。
「今日は? 何作るの?」
「サケのムニエルです」
(後編へ続く)
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