第5話 ムニエル・卓球・キムワイプ(後編)
❄❄❄
再び研究棟の休憩室。
キッチンに置かれたバットには、サケの切り身が二つ、色鮮やかに輝いていた。
「おぉ! きれいなピンク色だ!」
餌を目の当たりにしたネコのように、うららは瞳を輝かせる。
氷彗はサケに塩をまぶしながら、この色合いの仕組みを語った。
「サケの色味はアスタキサンチン、という物質によるものです。これは、化学的にはカロテン色素と似ています」
「カロテンって、ニンジンによく入ってるやつ?」
「そうそう! それです!」
「ははぁ……だからピンク色なんだ」
サケをじっと見つめていると、何かを思い出したのだろうか、うららの睫毛がゆっくりと持ち上がった。
「私、高校の頃はお弁当だったんだけど、お肉よりお魚の方が好きだったな」
「どうしてですか?」
「ほら、お肉って冷めると脂が固まって、表面に白く浮き出てくるじゃん? あれが、どうにも苦手でさ」
「分かります……食感もよくありませんし」
「お魚は、それが無かったような気がするんだけど、あれってどうして?」
「それは、脂肪酸の違いです。お肉は固まりやすい飽和脂肪酸をたくさん含んでいますが、お魚は固まりにくい不飽和脂肪酸を含んでいるからです」
簡潔な回答に、しかしうららはどこか納得がいかないようだ。
「うーん……でもさ、何で違う脂肪酸を持つわけ? 同じ動物なのに」
「そこやっぱり気になりますか!!」
うららが抱いた疑問は、かつて氷彗も不思議に感じたことだった。
その感覚の重なりに、気持ちが高ぶって口が動く。
「う、うん」
「脂肪酸の違う理由は、その動物が恒温動物か変温動物かという点にあるんです!」
「そんなところに?」
「お肉になっている牛や豚、鳥のような動物は全て恒温動物。つまり、体内温度が約40℃で細胞がベストに機能するようになっています。なので、それより低い温度では、色んな物質が固まって、機能しなくなるんです。反対に、魚は変温動物ですから、冷たい水中でも細胞は機能しなくてはいけません。だから、冷めたお弁当の中でも、魚の脂は固まることがないんです!」
「面白い……マクロとミクロの視点が交差していて」
動物の暮らし方の違いは、分子のレベルにまで及んでいて、それが料理の際に実感できる。マジックの種明かしでもされたみたいに、うららは感嘆の吐息を漏らしていた。
「塩を振って水分が抜けてきたので、これをキッチンペーパーで……」
「どうしたの?」
「キッチンペーパーが……」
切れました、と氷彗は空になった箱を指さした。
「どうしましょう?」
「ふふふ。ちょうどあるじゃん。ぴったりの代用品が」
「もしかして、アレですか?」
アレ、というのは言うまでもない。
卓球でラケットになっていた緑の箱には、数枚キムワイプが残っていた。
氷彗は躊躇しながらも、それをサケの切り身に巻き付ける。
「……あ、すごい。ほとんどキッチンペーパーです」
「そうそう。キムワイプは万能だからね」
なぜか誇らしげなうららであった。
「ところで、どうして水分を取り除いたの?」
「臭みを消すためです。魚の臭みはトリメチルアミンという物質が原因で、これは水溶性なんです。だから、水分を取り除いてあげると、臭みも抑えられます」
水分を抜いたら、サケの切り身に薄力粉をまんべんなくまぶしていく。
フライパンに油を敷いたら、いよいよ最大の難所、加熱だ。
「予熱でフライパンを温めたら、火をできるだけ細めて焼いてきます」
コンロのつまみを慎重に回し、火をマッチのような小ささへと細めていく。
「随分と小さいけど……火加減は弱くない?」
「いえ、むしろ強すぎるくらいです」
焼き具合に細心の注意を払いながら、氷彗は続ける。
「肉や魚の食感は、筋肉のタンパク質と大きく関係しています。魚の筋肉は、肉のそれと比べて、熱に弱いんです」
「どれくらい?」
「大体50℃近くで収縮して、60℃あたりからパサパサになってしまいます」
故に高温で焼いてしまうと、硬くなりすぎてしまうのだ。
氷彗は何度も菜箸で弾力を確かめながら、あるタイミングで「ここです!」と声を上げて火を止めた。
「最後に余った熱でバターを絡めて……出来上がりです!」
シンプルな料理だが、豊かな色味と風味は否応なしにすきっ腹をつついてくる。
辛抱たまらず、二人はちゃぶ台へ移動すると、手を合わせた。
「いただきます!」
表面を箸で崩し、一かけらのピンクを口に運ぶ。
パクリと食べると、塩気がじゅわっと舌の上に広がって、ほろほろとほどけていった。そこにバターのまろやかさが絡まり、味わいはさらに深みを増していく。
火の調整、上手くできた。
氷彗が内心喜んでいると、目の前のうららはふるふると身震いした。
「うわっ! 何これ、すごいジューシー! サケって、焼き加減にこだわればこんなに柔らかくなるんだ……お肉みたい。でも、お肉より味がしっかりついてる。ソースもタレもつけてないのに」
「お魚は、お肉に比べて元々味が濃いんです」
「そうなの!? ……もしかして、それも生態と関係してたりする?」
「はい! 海に棲む魚は、常に高濃度の塩水を取り込んでいますよね。もし、それに比べて細胞内の濃度が低いと、浸透圧の関係で、細胞に塩水が入り込んでしまいます。だから、魚は塩水の濃度に負けないように、細胞にたくさんのアミノ酸をため込んでいるんです。これが、甘味や旨味の元だと言われています」
身をつついているうちに、ぺりぺりと皮がめくれた。銀色にきらりと輝くサケの皮。それをくるくると箸に巻き付け、食べてみる。
パリッ、カリッ、と身とは違う食感が口から伝わり、鼓膜へと響いていった。
新しい刺激に箸は止まらず、皿の上に残ったのは、とうとう骨だけになってしまった。
「ごちそうさまでした」
食べ物に感謝の合掌を終えて、肩の力を抜く。
いつもなら食後の余韻に浸るところだが、今回はうららが率先して皿を片付け始めた。
「片付けは私がするよ」
「そんな、私も一緒に」
「いいっていいって。キムワイプ卓球に付き合ってくれた、お礼」
氷彗には、その言葉の意図が分からない。小首をかしげると、うららが後から付け足した。
「私がやりたそうにしていたから、付き合ってくれたんでしょ?」
疑いのない感謝を向けられると、羞恥が首筋をせり上がり、氷彗はたちまち頬を赤らめる。
違う。
あれは、嫉妬しただけで……
思い返すとますます情けない。穴があったら入りたい。
弁明しようにも、そんなこと口に出して言えるはずがない。
どうやら、まだまだうららとの間にはズレがありそうだった。
その埋め方は、多分とっても単純で、だからこそ難しい。
でも……
「あの、塔山さん」
「ん?」
「よかったらこの後、もう1試合やりませんか?」
深夜のテンションに力を借りて、氷彗は一歩踏み込んでみる。
その歩幅は、ごくごく小さいものかもしれないけれど。
「望むところだ!」
皿洗いをしていたうららは、スポンジをラケットのように構え、ニカっと微笑む。
知らないうららがいるのなら、じっくり知っていけばいい。
こんな風に、たわいもない時間を共有して。
言葉のラリーを、繰り返して。
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