第6話 カリカリ・から揚げ・カエル肉(前編)
こちらのお話は、
・二人がご飯を作って食べるだけのお話です。
・ファンタジー要素はありません。
・幽霊、あやかし要素はありません。
・ミステリー要素はありません。
また、科学的説明はあくまでスパイスです。
つまらなかったり、面倒くさければ、読み飛ばしてもらっても全然大丈夫です。
以上の点にご注意の上、お腹を空かせてお読みください。
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☀☀☀
マウスのクリックとキーボードのタイプ音は、刻限を知らせる時計の針のように、確かな緊張を孕んでいた。
夕暮れの田宮研究室は、いつになく張り詰めた空気である。
それもそのはず。
本日は、うららの論文修正に課せられた〆切日。
ここ数日、うららは
そして、今まさに事態は最終局面に差し掛かっていた。
PCのディスプレイに映し出された投稿フォームを、うららと田宮は一つ一つ注意深く確認していく。
論文著者の所属、修正を施した論文、
画面をゆっくり下へとスクロールさせていき、とうとうすべてのチェックが終わると、
ごくりと、うららは固唾を飲み込む。
「それじゃ、押しますね」
マウスに添えた手が、じっとりと汗ばんでいる。
カーソルをボタンの上に重ねると、さらに鼓動が速くなった。
これを押せば、もう手直しの機会はない。座して天命を待つしかない。
もしミスをしていたら、この1か月分の頑張りが無駄になってしまう。そんなのは嫌だ、と慎重派の自分が声を上げる。すると、うららの指は氷のように固まって動かなくなった。
もう一度だけ。もう一度だけ確認しよう。
そう思った矢先、唐突に鼻がむず痒くなり……
「っくしゅん!」
押してしまった。
ぐるぐると読み込みマークが数周した後、投稿完了と画面いっぱいに表示される。
これでよかっただろうか。
いや、考えたところで今更か。
ともかく、とうららは隣の田宮に向き直った。
「……再投稿のチェック、ありがとうございました」
「いえいえ。塔山さんも、お疲れさまでした。なかなかハードな審査員に当たってしまいましたけれど、何とかなりましたね」
田宮もうららと同じく、ほっと胸をなでおろす。
この研究業界で数十年の経験を積んでいても、やはり論文投稿の瞬間は緊張するらしい。それだけ、真摯に対応しているということなのだろう。
「結果は数週間で返ってくるでしょうから、学振の応募にも間に合いますよ」
「受諾されればですけどね」
学振とは、国から一部の大学院生に与えられる給与制度のようなものだ。
それに採択された大学院生は、月額二十万円に加え、研究費として百万円がもらえるのである。
おいしい制度ではあるが、それ故に競争率も高い。実際、昨年うららは学振に応募して書類審査にパスしたものの、面談で落とされてしまった。
数いるライバルを押しのけて、採択されるためには、研究者としての成果である論文の本数が重要だった。
今投稿した論文が採択されれば、ぐんと学振に採択される確率も上がるだろう。
うららは期待しすぎないように振る舞ったが、内心楽しみではあった。
「学振を取れたら、次は“くさわけプログラム”狙える成果を目指しますよ」
「それは頼もしい。でも、あまり無理はしないでください。根を詰めた後ですし、たまには気分転換でもして、体を休めてくださいね」
田宮は腕時計を一瞥すると、「おっと、孫との夕食に遅れてしまう」と急いで荷物をまとめて研究室から帰っていった。
後輩もすでに帰ってしまっているので、部屋にはうらら一人となる。
論文投稿の張り詰めた空気が緩むと、自然と筋肉もほぐれていき、うららはだらんと背もたれに体を預けた。
「気分転換ねぇ……」
そうは言っても、研究の関連以外で、これといった趣味はない。
研究室に配属される前の学部生時代は、どうやって休日を過ごしていたんだっけ。
記憶を数年前まで巻き戻すと、親友の顔が頭に浮かんだ。
そうか、凪だ。
うららはスマホのラインを起動し、目の前のディスプレイを写真で撮ってトークルームに張り付けた。
うらら【再投稿出来たよ~】
凪 【おめでと。お疲れさん】
うらら【ありがとう!】
うらら【もう仕事終わったの?】
凪 【残業は回避したからね。今、電車】
うらら【そっちもお疲れ。ところで凪、次の休みっていつ?】
凪 【休館日の火曜】
うらら【じゃあさ、その日、一緒にお菓子作らない?】
凪 警戒スタンプ
凪 【怪しい。何が狙いなのさ】
うらら【何も狙ってないよ!】
凪 【だって君……一緒に住んでた時、そんなおしゃれな趣味を一度だってしたことないでしょ】
うらら【それは、まぁ、そうだけど】
うらら【前に、凪が言ってたじゃん。小学校で実演する科学実験のお菓子のこと】
うらら【もし、まだ決まってないなら、一緒に色々作って試してみようかな、と思ったんだけど】
凪 【……アレ本気で言ってたの?】
うらら【うん】
凪 【ありがとう】
〈 凪 さんがメッセージを取り消しました 〉
凪 【ごめん、誤字った】
凪 【取り敢えず、わかったよ。なら、月曜の仕事あがったら、そのまま研究棟に向かうけど、それでいい?】
うらら【OK!】
そんなわけで、気分転換の内容はお菓子作りに決まった。
氷彗のことも話そうか、うららは一瞬迷ったが、彼女の人見知りを思い出し、思いとどまる。話すにしても、まずは氷彗を誘ってからにしよう。
もたれていた体を起こす。
すると、ディスプレイに通知が一件表示されていた。新着メールだ。
もしかして、投稿した学術雑誌の編集からだろうか。
しかし、うららの予想は外れていた。
【塔山さん
田宮です。改めて、今日は再投稿の作業お疲れさまでした。
論文が無事に受理されることを祈っています。
さて、急いでいたので帰り際に伝え忘れてしまったのですが、冷蔵庫にお祝いの品を入れておきました。スーパーではなかなかお目にかかれない、高級なお肉です。
最近、夜に休憩室で料理をしていると小耳にはさんだので、きっと喜んでもらえると思います。これで精をつけてください。
田宮】
溢れだしそうになった涎を、ぐっと飲みこむ。
「高級お肉……」
なんて食欲をそそる罪深い響きだろう。
自分の投稿祝いに、そんなものを用意してくれるなんて、感謝の言葉が見つからない。涙を拭おうとしたが、流れていなかったので、うららは代わりに涎を拭った。
るんるんとステップを踏んで、研究室の冷蔵庫に歩み寄る。
扉を開けると、心地よい冷気と共に、庫内灯が薄桃色を鮮やかに照らし出した。
どんなお肉なのか確かめようと、うららは薄桃色を包むビニールをそっと剥がす。
「…………」
高級肉の定番である牛を想定していたが、どうやら違うみたいだ。
大きさや形から、一番近いのは手羽先に見える。しかし、そのお肉は手というよりは足と表現した方がしっくりくる。
しっくりくる?
どうして、しっくりくるんだろう?
うららは首を傾げた。
「あれ? このお肉どこかで見たような……」
よくよく観察してみると、お肉にはいくつか針で突き刺したような穴が開いていた。
嫌な予感が脊髄を横切り、とっさに手にしたビニールを広げてみる。
生物学実験用ウシガエル——
さぁっと、全身から血の気が引いた。
目の前にあるものは、皮を剝がれた大量のカエル肉だった
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ———————————————————————!!」
数週間ぶりに、研究棟に悲鳴が響いた。
(後編へ続く)
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