第26話 ピリリ・綻び・麻婆豆腐(前編)

コミカライズ続報!!

6月26日よりコミックファイアにて連載開始です。


以下お約束

こちらのお話は、


・二人(今回は四人)がご飯を作って食べるだけのお話です。

・ファンタジー要素はありません。

・幽霊、あやかし要素はありません。

・ミステリー要素はありません。


また、科学的説明はあくまでスパイスです。

つまらなかったり、面倒くさければ、読み飛ばしてもらっても全然大丈夫です。

以上の点にご注意の上、お腹を空かせてお読みください。


———————————————————————————————————


 ༄༄༄ 


 結構、話し込んじゃったな。

 そう思いつつ、凪は左手首に巻かれた腕時計を確認した。

 時刻は既に夜八時を回っていた。


「それでは、失礼しました」

「いえいえ。本当に今日は助かりましたよ。ありがとうございます」


 別れ際に挨拶を交わし、田宮の居室を後にした。


 今日、月曜日は勤務先である科学館の休館日だ。

 それを利用して、凪はここ最近、元指導教員である田宮の元へと訪れていた。

 修士論文の成果をまとめてジャーナルに投稿する手伝いをしていたのである。

 本来なら卒業してすぐやろうと考えていた作業なのだが、社会人一年目にそんな余裕もなく、結局この時期まで引っ張ってしまった。

 後輩への引き継ぎも依然として中途半端なままなので、この研究室でやることはまだなくなりそうにない。


 しかし、悪い気はしなかった。

 せっかく研究生活を経て学芸員になったのである。

 できることなら、今後もアカデミックとのコネクションは維持しておきたかった。


「この香り……今日もやってるのかな?」


 階段を下りて二、三階の踊り場にさしかかったとき、つんと鼻を突く匂いがした。

 おそらく香辛料の類。誰かが料理しているのだろう。

 そして、こんな時間に研究棟で料理をしているとなれば、彼女達しか思いつかない。 


「先週ぶり、お二人さん……て、あれ?」


 半ば確信を持って、休憩室に顔を出す。

 しかし、凪の予想に反してそこにいるのは一人だけだった。


「……新庄さん」


 こちらに気付いた氷彗は、驚いたように眉を持ち上げる。

 後ろで束ねた髪の房が、力なくゆらゆらと揺れていた。

 室内をぐるりを見渡してみるが、うららの姿はない。

 このスペースに彼女だけというのは広すぎる。


「今日は鳥見川さん一人? うららは?」

「その……用事があるそうで」

「ふぅん」


 首を傾げて氷彗の目線と高さを合わせる。

 すると磁石の同じ極が近づいたみたいに、彼女の視線はゆるりと逃れていった。


 どうやら、まだ人見知りの癖は抜けていないらしい。

 しかし、果たして理由はそれだけだろうか。

 今の氷彗は、それ以外の何かを抱えているような気がした。

 単なる直感だが、凪のそれはよく当たる。


 何かあった?


 それとなく事情を聞こうとしたすんでの所で、氷彗が先に口を開いた。


「あの良ければ! 新庄さんも食べていかれませんか」

「え?」

「ついいつもの癖で、二人分の材料用意してしまって……」

「いいの? なら、お言葉に甘えようかな」


 その言葉で、氷彗の表情がわずかに明るくなる。

 それまできつく結ばれていた口元が緩み、双眸に光が灯っていった。

 まっすぐにそんな反応を返されると庇護欲をかき立てられ、つい守ってあげたくなってしまう。


「今日は何を作るの?」

「麻婆豆腐です」

「いいね。ちょうど辛いもの食べたかったんだ」


 そこで凪は、ガスコンロに焼かれる中華鍋に何も入っていないことに気付いた。


「それで、今は何を?」

「鍋の空焼きです。強火で二、三分かけて、鉄肌が青みを帯びてくるまで加熱します。こうしておけば、食材の焦げ付きを防げるんです」


 油を敷く前にフライパンを温めることはあるが、それでもたかだか数十秒程度だ。

 こんな分単位でがっつり空焼きするとは思わなかった。


「空焼きが終わったら、油を多めに入れます」

「結構入れるね……」

「本場の中国料理に比べたら、これでも少ないくらいです。もっと少なくすると、油は薄膜状態で空気に曝されたまま加熱されるので、著しく酸化されてしまいます。そうなると味も落ちてしまいますし、健康にも悪いんです」


 中華鍋の丸い底に油が馴染んだら、そこに挽き肉を入れていく。

 杓子の背でほぐしてやると、塊はたちまちパラパラとほどけていき、米粒のようになっていく。

 高温で水分が飛び、蒸気と共に肉の香りがほとばしってきた。


「挽き肉を炒め終えたら、ここで調味料を加えていきます」


 醤油、料理酒、コショウ、鶏ガラスープ……

 それに加えて、黒っぽい二種類の調味料が挽き肉に絡まっていく。

 しかしその中には、普段食べ慣れた麻婆豆腐に入っている香辛料がなかった。


「あれ? 唐辛子は使わないの?」

「はい。今回は豆板醤と、最後に振りかける山椒だけで作ろうかと」


 氷彗は黒っぽい調味料の入った容器を指さす。

 そのラベルには、日常生活ではそうそう使う機会のない「醤」の文字が明朝体で大きく印字されていた。


「こっちが豆鼓で、こっちが豆板醤か。中国の調味料は詳しくないんだけど、何が違うの?」

「豆板醤はソラマメと唐辛粉を発酵させたもので、豆鼓は黒大豆を発酵させたものですね。豆を発酵させた調味料という点では、日本の味噌とよく似ています」

「へぇ、知らなかった。原料は同じなのに、発酵で全然違うのに化けるんだ」


「全体が馴染んだら、解凍した豆腐を鍋に入れていきます」

「解凍って、豆腐凍らせてたの? 何で?」

「気になりますか!」


 何気なくつぶやいた疑問に対し、氷彗は猛獣のように喰い付いてきた。

 これが、うららの言っていた「スイッチが入った」という状態なのだろう。


「豆腐は0.05マイクロメートル程度のタンパク質がゆるい網目構造を形成しています。これを凍結すると内部の水が氷の結晶になって膨らみ、網目構造を乱すんです。その後、解凍すると液化した水が流れ出て、豆腐は乾いたスポンジ状になります。こうすると、タレがよく染み込み、ジューシーな味わいに仕上がるんです」


 この間、およそ十秒足らず。

 さながら台風の最大瞬間風速を計測した心地だった。

 ほとんどノンブレスで語り終えた氷彗は、いよいよ仕上げの作業に移っていく。


「水溶き片栗粉を少しずつ加えて、最後にきざみネギと山椒を振りかけたら、出来上がりです!」


 盛りつけられた麻婆豆腐は光に包まれていた。

 これは比喩でも何でもなく、蛍光灯の光を照り返して、文字通り煌々と輝いていたのである。


「きれい……全体にツヤがかかってる」

「最後に強火で数十秒煮たからです。こうすることで余分な油が遊離して表面に浮き出し、料理全体を覆ってくれます。これを亮油と言うらしいです」


 仕上げまでこだわり抜かれた麻婆豆腐。

 それをちゃぶ台へと運び、氷彗と向かい合って座る。


「それじゃあ、いただきます!」


 レンゲを握り、辛さで埋め尽くされた赤い海に潜らせる。

 すくった挽き肉はいまだ湯気を立ち上らせていた。その傍らでは豆腐がプリンのようにぷるるんと楽しげに踊っている。

 刺激的な香りが鼻腔の奥をくすぐり、食欲を促した。

 その誘いのまま、凪はレンゲを口へと運ぶ。


「……おいしい」


 豆鼓と豆板醤は発酵という複雑な反応を経て作られただけに、その味わいは奥深く、とても筆舌に尽くしがたい。

 それらは素材の一つ一つにしっかりと染み込んでいた。


 噛み応えのある挽き肉と柔らかい豆腐。

 食感が間逆な両者は、お互いを引き立て合い熱いハーモニーを奏でている。


 豆板醤と山椒の辛みが、口の中を容赦なく焼いていく。

 熱を伴った痛みが舌を刺激する度に、体温が上昇していくのを感じた。


「豆板醤の辛さは唐辛子のものだけど、山椒は不思議な感じだね」


 種類の異なる二つの辛さ。

 いわゆる「麻」と「辣」の違いだが、それらを食べ比べるのに麻婆豆腐ほどうってつけの料理はない。


「辛いのに冷たいというか、電気でしびれてピリピリしてるというか」

「そうですね。山椒の辛さは他と違って少し特別です。新庄さん、辛味はなぜ感じるか知っていますか?」


「それは、口の中の辛味受容体が活性化するからでしょ。たしか、辛味は基本五味に含まれなくて、痛覚刺激に関連してるんだっけ?」

「その通りです。唐辛子のカプサイシンも山椒のサンショオールも辛味受容体TRPV1を活性化させるのは同じです。ですが後者は別の働きも持っています」

「別の働き?」


「麻酔薬が抑制するターゲットであるKCNK3とKCNK18という分子を、サンショオールは同じように抑制していたんです!」

「ほんと?」

「はい! 山椒は他にも複数の神経末端に作用すると言われています。特に魚には強い麻痺を与えるらしく、これを利用して毒もみという漁法も行われています」

「面白い……」


 まさか、山椒のピリリとした味わいが麻酔作用と関わっているとは。

 後で調べて、仕事のネタにできないか考えてみよう。


「きっと、うららならその手の話題、オーバーリアクションで食いついてきただろうね」


 話題にあげた共通の友人はこの場にこそいないが、その様子はいとも簡単に想像できた。

 ちゃぶ台越しにグイグイと身を乗り出して「どうして!?」と聞いてくるに違いない。


 その姿を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれた。

 つられたように、目の前の氷彗も口元を歪める。


 それはきっとこちらと同じように、笑顔へ変わっていくのだろう。

 凪はそう思っていたが、予想は大きく外れた。


「鳥見川さん!? 大丈夫」

「え? どうしたんですか?」

「だって、涙……」

「あ——」


 白魚のような手が目元に触れる。

 手の甲には透明な滴がこぼれていた。

 そこでようやく氷彗は涙を流していることを自覚したらしい。

 彼女も驚いている様子だが、ぽつぽつと溢れ出る涙は止まるように見えなかった。


「ごめんなさい。この麻婆豆腐……やっぱり私には少し、辛かったようです」

「無理しなくていいよ」


 凪は、必死に取り繕おうとする氷彗の隣へと寄り添った。

 触れた肩は小刻みに震えていて、喉元は弱々しくヒクついてた。


 どれだけ必死に耐えていたのだろう。

 とっくに限界だったはずだろうに。


 それでも凪と食事をしたいと誘ったのは、自分が大丈夫だと証明したかったのかもしれない。


「うららと、何かあったんだね」


 優しく背中をさすると、氷彗はわっと泣き出した。

 凪はそんな彼女をそっと抱きしめてあげた。


 あのうららが誰かを傷つけるなんて想像もつかない。

 考えられるとすれば、原因はアレだけだろう。


 修士時代まで中途半端に終わらせていた問題を、凪は思い出していた。


(中編へ続く)

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