第18話 見送り・うるうる・カップ麺(中編)
☀☀☀
真夜中の研究棟の休憩室は、いつも通りの静けさに包まれていた。
夜行性のうららには、やっぱりこちらのほうが落ち着く。
隣ではエプロンを着た氷彗が、料理で使うものをキッチン台に準備していた。
ラーメンを作るというのに、その中に出来合いの中華麺はない。
ひときわ目を引くのは、手回し式の物々しい製麺機と白い粉だ。
ということは、やはり……
「粉から作るんだ。カップ麺なのに、今までで一番本格的な気がする」
「ラーメンに使われている小麦粉は、グルテンの量が中力粉より多く強力粉より少ない、準強力粉です。これに塩水を入れた”かん水”を加えて混ぜていきます」
耳慣れない言葉に好奇心が湧いて、うららは思わず飛びついた。
「かん水って何? どんな味?」
「の、飲んじゃだめです! かん水は、炭酸ナトリウムと炭酸カリウムの水溶液、つまりアルカリ溶液です」
「な、なるほど。酸性はすっぱくてアルカリ性は苦いっていうしね。それで、どうしてこれを入れてこねるの?」
氷彗の眉が持ち上がり、双眸が大きく開かれた。
スイッチの入った証拠だ。
「小麦粉をまとめるためです! うららさん、小麦粉の中には何が入っているか覚えていますか?」
「えっと、主にデンプンとタンパク質だよね?」
「その通りです。タンパク質の構成要素のアミノ酸は、プラスとマイナスの電荷を持つものがあります。違う電荷は引っ張り合い、同じ電荷は反発し合い……そうやってタンパク質は最もバランスの取れた形をとっているんです。なので、小麦粉をそのままこねるだけでは、一つにまとまってくれません」
氷彗は手首をくねらせて、小麦粉にまんべんなくかん水をかけた。
「そこで、このかん水と塩水の出番です」
「あ! そっか、ポーチドエッグに塩を入れたのと同じだ!」
うららは春の終わりにしたお花見のことを思いだした。
あの時も、白身のタンパク質を変性させるために塩をまぶしていた。
「塩は水に溶けると、プラスのナトリウムイオンとマイナスのカリウムイオンになるから。それが小麦粉に入り込んで、タンパク質が保っていたプラスとマイナスのバランスを崩すんだ」
「そうなんです! そして、アルカリ溶液を加えるとアミノ酸の電荷状態も変わるので、ますますバランスは崩れます。すると、こんな風に一つにまとまってこねることが出来るんです」
白い指が白い粉に分け入り、滑らかな手つきでこねられていく。
ぱさぱさとしてた粉はいつの間にか粘り気を持ってまとまり、一つの生地になった。
「生地がまとまったら、ビニール袋に入れてよく踏みます」
氷彗はパンプスを脱ぐと、白魚のような足をビニールの上に乗せた。滑らかな足首と、そこから続く艶めかしいつま先に思わず視線を吸い寄せられる。
生地を必死にこねようとその場で足踏みする姿は、何だか愛らしく思えた。
その様子を見ていると、うららの中で変な考えが浮かんだ。
「氷彗の足で踏まれたラーメン……需要ありそう」
「えっ!? ぅわ!?」
バランスを崩した氷彗がこちらに倒れ込んでくる。
そのまま抱きとめると、赤らんだ頬を膨らませた彼女がこちらをジトッと見つめていた。
「ぉ、おかしなことを言わないでくださいぃ」
「えへへ、ごめんごめん。はい、ちゃんと手を握ってるね」
手の平に触れると、氷彗は一瞬びくっと震えて、そして俯いた。
「……はい、ありがとうございます」
それから一心に生地を踏み続けていると、ビニールの中で変化が起こった。
生地の色が白から変色していたのだ。
「あれ、黄色くなってる?」
「これは小麦粉に含まれる色素、フラボノイドによるものです。アルカリ性の環境下でこんな色になります」
氷彗は靴を履きなおし、ビニールの表面をさっと拭いてキッチンに乗せた。
「ここから生地は少し寝かせます。その間にスープを作りましょう」
「ラーメンの味の決め手だね! 何にするの?」
「シンプルに醤油ベースです。少なめの水に対して、醤油、おろしニンニク、おろしショウガ、シャンタンを加えて鍋で煮込みます」
鍋に入れられた水は想像以上に少なかった。スープは醤油の色でほとんど真っ暗に染まっている。味を想像しただけでも舌がヒリヒリした。
「ずいぶん濃いと思うけど……大丈夫かな?」
「これくらいでちょうどいいんです。カップ麺は最後にお湯を加えますから」
「あ、それもそうか」
粉から麺生地を作るという本格的な工程を経たので、すっかり最高級ラーメンを作っているものだと勘違いしてしまっていた。
今作っているのはカップラーメンだ。
「一煮立ちしたらスープは完成です。次に寝かせておいた生地を製麺機の混捏モードで平らにします。そしたら、製麺機を麺切りモードにして切り分けます」
平らにした生地を投入口に挟ませ製麺機のハンドルを回すと、プリンターのように飲み込まれていった。排出口から再び姿を現した生地は均一に裁断されて、中華麺になっている。細い麺が何本も連なって伸びる様は、まるで昔話に出てくる機織り機のようだった。
「切り出された麺がトレーの長さ分になったら、ハサミで切ってください」
「了解!」
伸びてきた麺をちょきん、ちょきんと切っていくと、ようやく市販されている麺と近い形になった。
「麺は一食分に小分けして、鍋で蒸します。蒸し終えた麺に、先ほど作ったスープをたっぷりかけたらいよいよ……油で揚げます!」
「揚げるの!? 何で!?」
「麺に入り込んだ水を一気に沸騰させるためです。今の麺は蒸したことで、中に水が入り込み柔らかい状態です。これを揚げると水が蒸発して、その分が穴ぼこになり麺は乾燥します。これによって保存性が高まるんです。カップ麺を食べる時にお湯を注ぐと空いた穴に水が戻り、麺が元の柔らかい状態に戻るという仕組みです!」
型に入れられた麺が、じゅわわと音を立てて揚げられていく。この湧き立つ泡の中に、麺の水分が含まれているのだ。
スープを被って茶色に染まった麺が油に浮かんでいると、かき揚げにも見えてくる。
揚げ時間は一、二分で終わり、氷彗はサッと取り出した。
「最後に揚げた麺を蓋つきのカップに入れて……完成です!」
入れ物のカップは百円ショップで買ったプラスチック製のものだ。発泡スチロールのパッケージではないだけで、なぜか全然違う料理に見えてしまう。
うららは出来立てのカップ麺にお湯を注ぎ、蓋を閉じた。
待ち時間の三分がこんなにワクワクするなんて、初めてカップ麺を食べた時以来だ。
「おぉ~~~!! ちゃんとできてる!」
ゆっくりと蓋を開けると、スープの香りと共に白い湯気が立ち昇り、その間から柔らかそうなラーメンが顔を覗かせる。
うららは氷彗とちゃぶ台に座ると、手を合わせた。
「それでは……いただきます!」
割りばしで麺を一すくいして、ふぅーふぅーと息を吹きかけ口に運ぶ。
ちゅるるんと吸い上げて歯を立てると、カップ麺独特のちぢれた食感が口の中に広がった。
ラーメンなのにどことなく香ばしいのは、やはり揚げたてだからだろうか。
噛めば噛むほど癖になるコシコシとした硬さは、市販の物で味わったことの無いものだった。
のど越しまで堪能したうららは「くぅ~~!」と、感動の吐息を漏らした。
「おいしいっ! 今まで食べたどのカップ麺よりおいしいよ!」
「それは、よかったです。うららさん、カップ麺は食べ慣れているので……お口に合うか心配でした」
「全然心配することないって! 本当にびっくりするくらい舌に合うよ。やっぱり、氷彗のおみ足のおかげかな?」
「っ!? そ、それは関係ありません!」
「あはは……でも、氷彗の料理をずっと食べてきたから、その嗜好に私の舌が合ってきたのかもね」
スープを口に含むと、醤油を基調とした味わいからパンチの効いたニンニクの香りが鼻孔を刺激した。
こくんと飲み込むと、ショウガの風味がじんわりと広がり、スープの熱と一緒になって体をポカポカと温めていった。
その温かさは、氷彗の想いがこもっているような気がして、うららは最後の一滴までスープを飲み干した。
「ごちそうさまでした!」
☀☀☀
後片付けを終えたうららは、残ったカップ麺を受け取ってカバンにしまった。
「氷彗、ありがとうね。すっごく美味しかったよ! これなら絶対向こうでも飽きないね」
とんとんと靴を履きなおし、腕時計で時間を確認する。
もうとっくに丑三つ時を回っているが、飛行機は夕方の便なので今から一眠りしても間に合うだろう。
うららは氷彗の方に翻ると手を振った。
「それじゃ氷彗。また来週。行ってきます!」
「……はい」
氷彗は「行ってらっしゃい」とは、返さなかった。
いや、ひょっとしたら、返せなかったのかもしれない。
私……飛行機は苦手なので——
鹿児島の学会に行く前、氷彗の言っていた言葉が脳裏をよぎった。
それが何故なのか、今のうららには思い当たる節がある。
でも、踏み込むにはあまりに危うい気がした。
今のうららに出来ることは、気丈に振る舞って無事に帰ってくると氷彗に信じてもらうことだけだった。
(後編に続く。)
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