第11話 夏バテ・夏風邪・ぶり大根(後編)
❄❄❄
「ねぇ、氷彗。いつもみたいに、話してくれないかな。料理のこと」
黙々と調理を始めた氷彗の背中に、弱々しい声がかけられた。
「でも、うららさん。安静にしておかないと」
「話していると、寒気とか頭痛が紛れるんだ……だから、お願い」
うららの声はいつものように張りのあるものではなく、しおらしいものになっていた。
そんな風にお願いされると、氷彗にはもうどうしようもない。
氷彗は後ろにいるうららに呼び掛けるように、料理の説明を始めた。
「では、まず下処理からしていきます。まずは大根。皮をむいて、半月切りにします。そしたら湯を沸かし、酒を入れたら大根を煮て、灰汁を取り除きます」
「お酒を入れるのは、どうして?」
「出てきた灰汁を飛ばすためです。酒は蒸発する際、溶け出してきた灰汁の成分も一緒に揮発してくれるんです」
熱湯に使った大根に竹串を刺すと、すっと入り込んだ。もう十分に柔らかくなっただろう。
「大根の下処理が終わったら、次はブリの下処理です。こちらも水で煮ます。火加減は、弱火でじっくりと温めていきます」
ブリの切り身はほんのりピンクに色づいており、皮は刃のように黒みがかった銀に輝いていた。
「弱火にするのは、筋肉のタンパク質が50℃くらいから収縮し始めるから、だよね? サケのムニエル作ってくれた時に、教えてくれた」
まるで、その時を思い出しているような声だった。
「あ、ありがとうございます。覚えていてもらって」
「覚えてるよ。氷彗が教えてくれたことは、ぜーんぶ」
その言葉に、思わず息が詰まる。
分かち合った楽しい経験は、それだけでおいしいけれど、大切に熟成して思い出になれば、もっとおいしい。初めて感じるその味に、氷彗は胸いっぱいになった。
うららの方を振り返れば、きっと何かが溢れてしまう。
そんな気がしたので、氷彗は頑なに料理に集中した。
「五分経ったらブリを取り出し、水気をしっかりと取って臭みを取ります」
煮たブリはすっかり白くなっていた。
それを今回はキムワイプではなく、キッチンペーパーの上に乗せる。
「煮汁にはみりん、砂糖、しょうゆを入れて、一煮立ちさせます。そこに下処理をしたブリと大根を加えたら、冷めていくのを待ちます」
「煮汁は冷めるときに、具材に浸透するからだね」
「はい、その通りです」
この話は、肉じゃがを作ったときにしたっけ。
「最後にはちみつを垂らして、レモンを添えれば……完成です」
出来上がったぶり大根は、煮汁をたっぷり吸いこんでいて、おいしそうな飴色に輝いていた。
「レモンはビタミンCが含まれているから、風邪に効果ありそうってイメージはあるけど、はちみつも効果あるの?」
「はちみつは、その熟成過程で色々な糖類やアミノ酸、酵素が生成されます。そのうちのグルコース酸化酵素が、抗菌性に繋がると言われているんです」
出来上がったぶり大根を、ちゃぶ台に運ぶ。
そして氷彗は、横たわっているうららの上半身を、壁にもたれさせるようにして起こした。
小皿にほぐしたブリと大根を移し、その一かけらを箸で摘まむ。
「さぁ、うららさん。どうぞ」
「……あの、さすがにこの年で誰かにあーんしてもらうのは、恥ずかしいというか、何というか」
うららに指摘されて、氷彗はハッとなった。
病で弱っている相手にはこれが自然だと思って、体が動いていた。しかし、相手がうららだと意識すると、急に気恥ずかしくなる。
これは看病、これは看病……
氷彗は念仏のように自分へ言い聞かせ、ぶんぶんと首を振った。
「で、でも……いけません。さっきだって、お土産掴めないで落としていました。料理を落としたら大変です」
「うぅ、そこを指摘されると何も言い返せない」
うららは諦めたように、もにょもにょと口を開いた。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて」
氷彗の差し出した箸に、うららがぱくりと食いついた。
もぐもぐと数回噛み終えてから、感動の声が漏れる。
「おいしい。このブリ、ホクホクでやわらかい。たっぷり染み込んだ煮汁が、噛むたびに口の中でジュワって溢れてくる」
次にうららが食べたのは大根だ。口に含んだ瞬間、その双眸が輝いた。
「こっちも煮崩れていないのに、しみっしみだ。ブリより煮汁の風味が良く分かるよ。砂糖メインの甘さの中に、ほんのりはちみつとレモンの香りが溶け込んでいて、すっごくおいしい」
こんなに辛そうなのに、食欲はあるのだろうか。そう心配していた氷彗だったが、どうやら杞憂だったらしい。
「ごちそうさまでした」
結局、うららは一人分のぶり大根を全部食べてくれた。
そして、そのまま満足げに、ぱたんと横になった。
❄❄❄
「これで、少しは温かいでしょうか?」
「うん。よかった、研究室に寝袋常備しておいて」
食後、氷彗はうららの研究室から彼女の寝袋を取ってきた。快眠するには難しそうだが、そのまま休憩室の御座で寝るよりはるかに良い。
ちなみに、なぜ研究室に私物の寝袋があるのかは聞かないでおいた。
「私はここで作業していますから、何かあったらすぐに呼んでください」
休憩室の壁際の電気を消し、氷彗はちゃぶ台でノートパソコンを開く。
ついさっきまで資料作りの真っ最中だったので、多くのウインドウが立ち上がったままであった。
「ごめんね。氷彗も学会発表前なのに」
「いえ……それより、早く休んでください」
「うん、ありがと。氷彗のおかげで、元気になれそうだよ」
こちらを見つめるうららの瞳がウトウトとしていくと、やがて目蓋がゆっくりと閉じられていった。
「おやすみ、氷彗」
休憩室に、すぅすぅと穏やかな寝息が流れはじめる。
氷彗はしばらくデータの整理と発表資料の作成を続けていたが、ひと段落したところで、モニタから視線を外した。
うららは既に深い眠りに入っている。
氷彗は近くまでにじり寄って、再三再四周りに誰もいないことを確かめると、静かに口を開いた。
「いいんです。これくらい、させてください。いつも元気をもらってるのは、私の方ですから」
さっきすり寄ってきたうららの額に、今度はこちらから手を添えた。
これで、おあいこだ。
「おやすみなさい、うららさん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます