第20話 合縁・奇縁・ホットチョコ(後編)
༄༄༄
「おぉ~!」
くりくりとした瞳がより一層開かれ、輝きを増していく。
その視線の先では、茶色い欠片がビニール袋にぎっしり詰められていた。
「すっごい量のチョコレート……これ、どうしたんですか?」
「差し入れ。明日からうちでチョコレート展っていう特別展が始まるのは知ってる?」
「はい! 色んなチョコレートの彫刻が展示されるんですよね。楽しみです!」
この巡回展は東京で始まり、日本各地の科学館で開催されている。
どこも好評を得ているため、明日からの来館者も増える見込みだ。
「そうそう。そこの協賛団体から頂いたの。まぁ、ほとんどは展示作品の切れ端だけど。でも……」
チョコレートの欠片を一つ摘まんで、暮葉に差し出す。
パクリと頬張ると、彼女の頬はたちまちふにゃりと緩んでいった。
「おいひいれふ」
「だね」
凪も一つ取って口に放る。
切れ端とはいえ、やはりパティシエの作品だ。
香りも舌触りも、市販のそれに比べたら何倍も洗練されていた。
「うーん、でもやっぱり不思議です」
「何が?」
ガスバーナーに火をつけて三脚台の上に鍋を置く。
その中に牛乳を入れてから、撹拌棒でゆっくりとかき混ぜていった。
「チョコレートって、最初はパキンて鳴るくらい硬いのに、どうして口の中ではトロトロにとろけるんでしょう?」
「あぁ、それは結晶の性質だね」
「けっしょう? ……チョコレートって、結晶なんですか!?」
好奇心を爆発させた暮葉がグイグイと身を乗り出してくる。
暴れ牛でもなだめるように「どうどう」と、凪は手を広げた。
「砂糖とかは入ってるけど、基本はココアバターっていう油脂の結晶だよ」
「そうだったんですか。でも、バターって冷蔵庫に入れてないと溶けちゃうんじゃ」
「普通のバターならね。ココアバターは面白くて、30℃あたりから一気に溶け出すの」
「ちょうど人の体温超えたあたりですね」
「そ。だから、口に入れる前は硬くて、後で溶けだすんだよ」
ガスバーナーで温められた牛乳が、ふつふつと音を立て始める。
そろそろいいだろう。
凪は細かく刻んだチョコレートを、鍋の中へと投入していった。
「そしてとろけると、それまで閉じ込められていた匂いの分子が飛び出してくる。こんな風にね」
「甘い香りです! おいしそう!!」
牛乳の白とチョコレートの黒が溶け合い、互いの境界線が曖昧になっていく。
それらが完全に混じり合うと、優しいココアの茶色へと変貌した。
「そういえば、去年ママと一緒にバレンタインチョコを作ったんですが、ここから先がうまくいきませんでした」
「うまくいかなかった?」
「はい。型に入れて冷やしてみたら、何というか……溶かす前より不味くなってしまって。トロトロじゃなくてザラザラしていたんです」
こめかみに手を当てて、むむむと暮葉は声を漏らした。
「これって、ココアバターが結晶化しなかったってことなんでしょうか?」
「うーん。というより、別の結晶ができちゃったんだね、それ」
「別の結晶? できるんですか? 同じココアバターなのに?」
気になります!
星空のように瞬く瞳を覗かせて、暮葉は叫んだ。
以前、どこかで見た覚えのあるリアクションである。
はて、どこだったろうか。
凪は記憶の中を探ってみるが、なかなか思い当たらなかった。
「例えば……シャープペンシルの芯とダイヤモンド。あれって、どっちも同じものの結晶って聞いたことない?」
「あります! 理科の授業で先生が言ってました! どちらも炭素でできてるのに、全然違うんですよね。硬さとか、電気を通すか通さないとか」
「チョコレートもそれと同じ。カカオバターは、全部で6つの結晶を作れるんだよ。で、私たちがおいしいって感じる結晶は5番目だけってこと」
鍋の中身が完全に混ぜ合わさったことを確認し、ガスバーナーの火を止める。
あとは火傷しない程度に冷ませば完成だ。
「この5番目の結晶でココアバターを揃えないと、おいしいチョコレートにならないんだけど……それには難しい温度調節が必要でね。パティシエでも苦労するらしいよ」
「目的の結晶だけを作るなんて、すごい……すごいです! まさに科学実験です!!」
パラダイムシフトに遭ったように、暮葉は感嘆の声を漏らしていた。
チョコレートは今や、コンビニで手に入るありふれたお菓子である。
そこに何の面白みもない。
だが見方が変われば、自分の知らなかった世界が広がっている。
その楽しさは、凪もよく知るものだった。
「そろそろ冷めたかな。じゃあ、飲もうか」
「はい、いただきます!」
暮葉はその小さな唇で、マグカップにフーフーと息を吹きかけた。
白い湯気が掻き分けられたところで、そっと口をつける。
「……あったかくて、甘々です。お腹の中からポカポカします」
満足げな吐息とともに顔が持ち上がると、メガネは真っ白に曇っていた。
それがおかしくて凪の喉の奥がくくっと震える。
小学生の純粋な感想をもらったところで、凪もマグカップに唇を添えた。
一口すすると、熱を帯びた芳醇な甘みが口の中いっぱいに広がっていく。
カカオのビターな風味にミルクが絡まり、まろやかで奥深い味わいだ。
ゆっくり味わう凪に対して、暮葉はもう一杯目を飲み干していた。
「おかわり、いる?」
「いります!」
「じゃ、二杯目はちょっと趣向を変えようか」
そう言って凪は仕事鞄から、買っておいたコンビニ菓子を取り出した。
「それ、マシュマロですか!?」
「そ。今度はこれを浮かべて……はい、どうぞ」
上から雪のようにマシュマロを散らし、二杯目を差し出す。
柔らかな白い粒は、ホットチョコの熱に溶かされ、輪郭がぼやけていった。
「これ、チョコでコーティングされたふわふわがたまりません……フォンデュみたいです」
こちらも暮葉は気に入ったようで、頬に手を添え舌鼓を打つ。
凪も試しに一つ浮かべてみたが、確かに食感が面白い。
柔らかさを噛みしめる度に、チョコの甘みが染み出して、気付けば口の中で溶けてしまう。
その後もミントやシナモンを添えながら、二人はホットチョコを楽しんだ。
「ごちそうさまでした」を言う頃には、今日の肌寒さなど忘れるくらい体は温かくなっていた。
༄༄༄
「先生、また次の土日も会えますか?」
「あー、その日はここにいないかな。うちの科学館、名知大学の学祭で出展することになってるから」
おいしさの余韻に浸った後。
凪は教卓に設置された水場でマグカップをすすいでいた。
「名知大学……? お姉ちゃんが通ってる大学です!?」
大学名に聞き覚えがあるのか、暮葉の眉毛がピクリと反応する。
どうやら「おじいちゃんが働いている大学」という認識はないらしい。
そこでふと、凪は違和感を覚えた。
「あれ? というか暮葉ちゃん前に一人っ子って言ってなかったっけ? お姉ちゃんがいたの?」
「従姉妹のお姉ちゃんです。先生みたいに料理が上手でカッコ良いんです……そういえば、先生もその大学でますたぁ? だったんですよね!」
「二年前までね」
「じゃあ聞いたことありませんか? 鳥見川氷彗というお名前です」
「…………へ?」
素っ頓狂な声が口からこぼれる。
ついでにマグカップも手からこぼれ、ガシャンと音を立てて割れてしまった。
༄༄༄
まさか、暮葉が氷彗の従姉妹だったとは。
通りで調理中、彼女に既視感を覚えたわけだ。
――気になります!!
――気になりますか!?
二人は容姿も性格も全然違うが、あの言葉だけは、声のトーンもアクセントもそっくりそのままだった。
世間というのは思った以上に狭いものである。
「こういうのを、合縁奇縁て言うのかな」
破片を掃除するため、用務室からほうきを持ってくる途中、凪はそんな独り言をつぶやいていた。
「お待たせ、暮葉ちゃ……」
最後まで言い終えないうちに、凪は口をつぐんだ。
目を離した僅か数分のうちに、暮葉は机に身を預け、すやすやと寝息を立てていた。
先ほどまでの賑やかさが嘘みたいに、空間には静けさが漂っている。
調理中にはしゃいで、パワーを使い果たしてしまったのだろう。
「ほんと、退屈させてくれないね……君は」
風邪を引かないよう、凪は小さな背中にスタッフ用のジャケットを被せる。
暮葉の唇がむにゃむにゃと動いた。その周りには、どこかの誰かさんみたいに、甘ったるい茶色のひげが残っていた。
「別れもあれば出会いもある、か」
先程、暮葉が語っていたことを思い出す。
その言葉を、甘さと苦さが残る口の中で転がしてみた。
大学時代のように、うららと会えなくなったのはやはり寂しい。
だが、ずっと後ろ向きになっているわけにもいかないだろう。
うじうじするくらいなら、今はこの小さな出会いに感謝しよう。
「暮葉。ひげ、ついたままだよ」
仕方ないな。
心の中でぼやきながら、凪は彼女の口の周りをティッシュで拭ってあげた。
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