第20話 合縁・奇縁・ホットチョコ(前編)
こちらは番外編EX-1の続きになります。
登場人物は異なりますが、結局のところ
・二人がご飯を作って食べるだけのお話です。
・ファンタジー要素はありません。
・幽霊、あやかし要素はありません。
・ミステリー要素はありません。
また、科学的説明はあくまでスパイスです。
つまらなかったり、面倒くさければ、読み飛ばしてもらっても全然大丈夫です。
以上の点にご注意の上、お腹を空かせてお読みください。
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༄༄༄
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!! 修論がっ! 終わらないぃぃぃ————っ!!」
カタカタカタと、響き渡るタイプ音は焦燥感に満ち溢れていた。
新年が明けてバレンタインも迫り、いよいよ修士論文発表が目と鼻の先にやってきた冬の深夜。
2DKの小さなシェアルームで、塔山うららはパソコン画面と睨み合っていた。
連日の徹夜が祟ったのか目元には大きなクマが出来上がり、充血した双眸は赤く滲んでいる。
作業机の上には山のように論文と参考書が散乱していて、脇にはエナジードリンクの空き缶が数本転がっていた。
その光景はさながら、ブラック企業の炎上案件に追われているエンジニアだ。
「へくちっ!」
小さなくしゃみが弾けると、うららは肩を震わせその身をさする。
着ているルームウェアは動きやすいものだが、それだけだと見るからに寒そうだ。
おまけに窓の外では、綿毛のような雪がゆっくりと地上に降りてきていた。
そういえば、明日は大寒波が訪れると天気予報で言っていたっけ。
ルームメイトの新庄凪はそんなことを思い出し、うららに毛布を投げつけた。
「寒いし夜遅いんだから、温かくしなよ」
雑に渡したというのに、うららは嬉しそうにそれを自分の体にくるませた。
「えへへ。ありがとう、凪」
「なーんでこんな提出ギリギリになって書き直すかな、うららは」
「だってぇ、今週出た結果の方が解析したら良さげだったんだもん」
凪はやれやれと首を振った。
ちなみに、凪の修士論文は先週の時点で指導教官に提出済みである。
これは何も凪に限ったことではない。ほとんどの同期は、遅くとも今週の頭に提出していた。
つまり、現在崖っぷちの状況に立たされている大学院生は、目の前の同居人だけということになる。
「そこそこで仕上げればいいと思うけどね。初稿読んだけど、結構よくまとまってたよ」
「ダメダメ! 奨学金の返還免除狙うんだから、最高の修論を仕上げなきゃ!」
自分を鼓舞するように胸の前で両手を握ると、彼女は「ふんす」と鼻息を荒くした。
うららとは既に十年来の付き合いになるが、何事にも全力で臨む姿勢は未だ変わったことがない。
それは凪に真似できないことだ。
そしてうららのそんな所を、凪は好いていた。
「まぁ、意気込むのはいいけどさ。風邪引いたら元も子もないでしょ……ほら」
凪は散らかった空き缶をどかすと、できたスペースにマグカップを置いた。
研究生活で二人して徹夜する際、凪がよく作ってあげたものだ。
「おぉ! ホットチョコレート!」
白い湯気を吹き飛ばし、うららはそっとマグカップを唇につける。
こくこく喉が上下した後、「ぷはぁ」と大きくて深いため息が吐き出された。
「あぁ〜、あったまる〜」
「お口に合って何より」
うららはマグカップの中身を味わいつくすと、ぺたんと上半身を作業机にもたれさせた。
「ポカポカしたら、なんだか眠くなってきちゃった。十分だけ寝よっかな」
「おーい、それ間違いなく寝落ちフラグだよ」
「大丈夫ぅ……凪が起こして、くれる……から」
うららの言葉は徐々に小さくなっていく。
言い終わる頃にはほとんど吐息に変わっていた。
今聞こえてくるのは、穏やかな寝息だけだ。
「ほんと、年がら年中騒がしいんだから」
口にした内容とは裏腹に、凪の唇は緩んでいた。
「うらら。ひげ、ついたままだよ」
無防備な唇には、甘ったるい茶色のひげが出来上がっている。
仕方ないな。
心の中でぼやきながら、凪はそれをティッシュで拭ってあげた。
༄༄༄
秋の朝日が目蓋を刺激し、凪は目を覚ました。
当然だが、そこはかつてのシェアルームではない。
科学館に就職した際、職場へのアクセスを考えて引っ越したワンルームだ。
うららの痕跡は、きれいさっぱりなくなっていた。
ぼんやりとした意識が、徐々に形を取り戻してく。
どうやら二年前の出来事を夢に見たらしい。
あの頃は気にも留めなかった秒針の音が、今はやけにうるさく部屋の中に響いていた。
「……まったく、なに今になって寂しがってるんだか」
笑い飛ばそうとしてみるが、唇は緩んでくれはしなかった。
༄༄༄
豊名科学博物館で学芸員を務めている凪は、ちょっと変わった役割を担っている。
特別展の協力者である大学教授の孫娘=雨晴暮葉の個人授業、もとい雑談相手である。
子供の興味とは、総じて移ろいやすいものだ。
この女子小学生も、すぐに飽きて来なくなるだろう。
最初はそんな風に考えていた凪であったが、暮葉は毎週土曜日の閉館後、決まってやってきた。
そして初夏から始まったこの奇妙な関係は、いつの間にか季節が一つ通り過ぎても続いていた。
「……へぇ。じゃあ、暮葉ちゃんはここに越してきたの昨年からなんだ」
「はい! それまでは世界各地を転々としてきました!」
彼女と会う場所は、決まって科学準備室である。
小学校の理科室のような造りであるこの部屋は、校外学習以外で使われることがあまりない。
耐火性の黒い机を挟んで、凪は暮葉と向き合っていた。その銀縁眼鏡の奥では、キラキラと羨望に輝いた双眸がこちらを覗いている。
「せ、世界各地って……ご両親は一体何してるのさ?」
「研究者です。パパもママも」
「おぉ……」
なるほど、と吐息が漏れた。
祖父の雨晴教授も含めて、暮葉の家族は研究者一家らしい。
科学という言葉にロマンを感じるのも、血筋なのだろうか。
「にんき? が切れる度に、新しい場所に引っ越していて……でも昨年、パパがぱーまねんと? ……の職に就けたので、当面はここで暮らせるらしいです」
「いや、そんな世知辛い内情までこまごま暴露しなくていいから」
舌足らずな口調で語られる厳しい現実に、凪は思わずストップをかける。
研究者として食べていくのは、かなりハードな道のりだ。
大学で博士号を取れば、そのまま教授職につけるわけではない。その後は研究職を転々とするのである。任期は大抵ニ、三年で切れるので、更新がなければまた別の研究室を探さねばならない。
「特別」研究員や「特任」助教といえば聞こえはいいが、とどのつまりそれは「特別任期が付いている」の略称である。
定住できない生活は、一人暮らしでも苦労するだろうに。
それが家族全員となれば尚更だ。
「でも、そんなに転校続きだと色々大変じゃなかった? 友達ができても、すぐ離れ離れになっちゃうし」
「確かに、別れはたくさん経験しました。中には悲しいものもあります。でもその分、素敵な出会いもありました。人生は別れと出会いの連続。私は今、先生と出会えて幸運です」
「暮葉ちゃん……いったい何歳?」
「十歳です」
「いや、含蓄ありすぎでしょ。その言葉」
「これはおじいちゃんの受け売りなのです」
そう言うと、暮葉の表情がくしゃりと歪んだ。
笑っているように見えたが、
「へくち!」
飛んできたのは可愛らしいくしゃみだった。
小動物の尻尾みたいなツインテールが、ふるると揺れる。
「寒い?」
「うぅ、油断していました。流石にこの時期まで半袖は、厳しかったようです」
晒された腕をさする彼女を見て、凪はふと今日の夢を思い出した。
「じゃあ……今回はホットチョコでも作ろうか」
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