第28話 ゲーム・スティック・ビスケット(中編)

 ❄❄❄


 氷彗はウインドウ上のコンパイルボタンを恐る恐るクリックした。

 数秒の間の後、今度こそエラーは吐き出されることなくPDFファイルが表示される。

 その出来映えを確認して、氷彗はほっと息をついた。


 終わった……


 胸中でつぶやいて、ぺたんと机に頭を乗せる。

 金属製のひんやりとした表面が頬から熱を奪っていった。

 ジャーナルに投稿する論文を仕上げるのはこれで三本目になるが、まだまだ慣れそうにない。


 教授陣はこんな作業を生業としているのだから驚きである。

 氷彗にとっては一本仕上げるごとに寿命が縮まる思いだというのに。


 研究室の壁に掛けられた時計を一瞥すると、ちょうど午後三時を回ったところだった。

 昼食はゼリー飲料だけで済ませていたため、既に小腹が減っている。


 ちょっと休憩しよう。

 そう思い立ち、氷彗は研究室を後にした。


 向かう先は研究棟から道路を挟んだ位置にある生協コンビニである。

 シンプルなボックス状の建物は、町中で見かけるチェーン店舗と大差ない。

 当然品揃えでは劣るものの、買った食品を隣接する学生会館で食べられるのは便利な点だった。 


「お? 氷彗だ」


 保温棚から紅茶のペットボトルを取り出していると、背中に声をかけられる。

 振り返ると、うららがこちらに手を振っていた。


「う、うららさん!?」


 まさか研究棟以外でばったり会うとは思っておらず、変に声が裏返る。

 そんなこちらの同様に気付くことなく、うららは足早にこちらへと距離を詰めてきた。


「偶然だね~。そっちも休憩?」

「はい。作業に一区切りついたので」

「そっかそっか。私もそんなところ。眠気覚ましにカフェインをね」


 氷彗の耳元をかすめ、うららの右手が保温棚へと伸びていく。

 彼女が選んだのは無糖の缶コーヒーだった。

 それを掌で握り「あったか~い」というリアクションは、決して大げさなものではないだろう。


 先日の秋雨以来、列島の気温は日々下がる一方だ。

 メインストリートの銀杏並木も葉は全て枯れ落ち、キャンパスを行き交う人々の服装も厚着へと移り変わっている。

 実際、目の前のうららも今日は暖色系のセーターという暖かそうな格好をしていた。


「買い終わったらあっちで話さない? 今日の夜食のこととか」


 思わぬ誘いに、氷彗はすぐさまコクコクと頷いた。

 その反応にうららはにっと口元を緩めると、そのまま大きく欠伸をする。


 指先が擦る目元には深いクマができあがっていた。


「寝不足ですか?」

「う~ん、ちょっと。実は徹夜しちゃってさ」

「冬の中間発表までには、まだ期間があると思いますが……」


 それも忙しくなるのは本年度で卒業する学生だ。

 うららは現在D2なので、まだ一年は余裕があるはずだが。


 気になって尋ねると、それまでハキハキとしていたうららの雰囲気が少し変わった。

 急に自信をなくしたように視線が当て所なくさまよい、声色もよそよそしいものになる。


「あぁ、研究のせいじゃなくて。今日は、朝イチで実家からこっちに登校してきたの」

「実家からって、二時間以上かかりますよね。どうしてそんな」

「その……ずっと話し込んじゃって」


 夜更かしがばれて謝る幼子のように、シュンとした面持ちでうららは白状した。

 耳と頬が赤く染まっている。その理由は照れているからなのか、それとも恥ずかしいからなのか。


 思考を巡らせたところで、氷彗は「あっ」と思い当たった。

 うららは、この土日にずっと母親と話していたのだろう。


 五年以上、積もりに積もった近況報告。

 それはきっと週末の四十八時間だけでは物足りず、今日の朝まで持ち越してしまったのだ。 

 つまりは、目の下のクマはわだかまりの解消を意味するものだった。


「よかったですね」

「まぁ、ね」


 短いやりとりと、わずかな沈黙。

 行き交う情報量は決して多くはないけれど、二人にとっては十分だった。


「……ところでっ! 氷彗は普段どんなお菓子買うの?」


 やはり恥ずかしいからか、うららは露骨に話題を変えてきた。

 普段のギャップと相まって、その必死さが可愛らしい。


「えっと、チョコビスかマシュマロですね。生協製の」

「あれ美味しいよね。安いし、たっぷり量もあるし」

「うららさんは普段どんなお菓子を?」

「私も生協印かな。グミとか、クッキーとか……でも、今日は買うの決まってるんだ」


 うららはぴんと指を伸ばし、レジ横にかけられたカレンダーを示した。


「何てったって今日は、11月11日だもんね!」

「そういえば、そうですね」


 そこで氷彗は、うららの言わんとしていることが分かった。

 11月11日——

 祝日でも何でもないこの日はその形に準え、とあるスティックビスケット菓子の記念日として認知されている。


「ああいうメジャーなお菓子って、普段は食べないけど、こういう日には無性に食べたくなっちゃうんだよねぇ」

「分かります。私も——」

「……あれ?」


 お菓子の陳列コーナーに足を運んだところで、不自然に会話が打ち消された。

 うららの視線の先にあるものは、目的のスティックビスケットだけが姿を消した商品棚だった。


「全種全品、売り切れてますね」

「そ、そんな……なぜ!」

「もしかしたら、皆さん同じことを考えていたのではないでしょうか」


 バレンタインのチョコレートのように。あるいは、クリスマスの七面鳥のように。

 記念日や行事が絡むと、誰しも同じ行動をとってしまうものだ。

 スティックビスケットだけきれいさっぱり無くなっている商品棚は、そんな人間の心理を的確に表していた。


「ぐぬぬ……浅はかな消費者めぇ! こんなのバレンタインと同じで、売る側の単なる戦略なのにぃ! それにまんまと踊らされるなんて!」


 もぬけの殻になった商品棚の前で膝を折り、うららは恨み節をつぶやく。

 その内容はもっともらしくあるものの、全部が全部、清々しく彼女に返っていくブーメランだった。


「なら、いっそのこと今日はこれを作ってみますか?」

「え!? もしかして……」


 氷彗はふっと笑みをこぼし、たった今思いついた提案を口にする。


「はい! 作りましょう……スティックビスケットを!」


(後編へ続きます)

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