第28話 ゲーム・スティック・ビスケット(後編)

 ❄❄❄


 深夜零時の研究棟。

 その休憩室では、今日も楽しげな二人分の声が響いていた。


 システムキッチンの作業スペースには、粉類をはじめとするお菓子の材料が綺麗に整列している。

 料理の前に使う物を一度こうして並べるのは、氷彗のルーティンであった。


「薄力粉、バター、牛乳……ザ・お菓子って感じの材料だね」

「はい。生協のチョコビスもクッキーも成分表示を見れば分かりますが、ほとんど同じです」


 口にした二つのお菓子の名称に何か引っかかったのだろうか。

 うららは唇をとがらせて尋ねてきた。


「そう言えば、前から気になってたんだけど、ビスケットとクッキーって何が違うの?」

「両者に厳密な違いはありません。本来は同じ焼き菓子を指しています」

「え? ないの!?」


「国による違いですね。アメリカではビスケットもクッキーも全部”クッキー”と呼んでいて、イギリスでは逆に全部”ビスケット”と呼んでいるんです」

「なるほど……」


「ちなみにビスケットはラテン語で”二度焼きパン”を意味するビスコクトゥ・パネムから、クッキーはオランダ語で”小さなケーキ”を意味するクオキエから来ています」


 「へぇ~!」と仰け反り、大きく開いた双眸が宝石のようにキラキラ輝く。

 こんな風に興味津々で話を聞いてもらえるのは、やっぱり嬉しい。


 このまま日本の公正規約についても話そうかと思ったが、それでは料理が進まないので我慢した。


 まずはビスケットの生地作りから。

 薄力粉、粉糖、塩をトントントンとふるいにかけていく。

 ボウルにさらさらと降り注ぐ様は、まるで粉雪のようだ。その光景に「きれい」と、うららの視線が注がれる。


「ふるい終えたらサイコロ状にカットしたバターを絡めて、そぼろ状になるまで混ぜ合わせます」


 そこに牛乳を流し込んだら、こねないように、切るようにして練っていく。

 やがて生地は粉っぽさを失い粘土のように固まった。それをサランラップに包み、冷蔵庫で休ませる。


 ここから数十分冷やして、カットするのはその後だ。


「むむむ?」


 それまでの一連の動作を見て、うららが奇っ怪な声を漏らす。

 両腕を組み、首は先ほどよりもさらに傾いていた。


「どうしました?」

「……混ぜる順番が気になって。小麦粉をまとめるなら、先に牛乳から入れた方が粉っぽくならない気がするんだけど。どうして先にバターから入れたのかなぁって」


「それはグルテンの形成を抑えるためです。焼き菓子のサクサクとした食感を出すためには、小麦粉のグルテン形成をなるべく抑える必要がありますよね?」

「うどんみたいにモチモチになっちゃうんでしょ」


 こくりと氷彗は頷く。


 唐揚げ、天ぷら、うどん、タルト……

 これまで作ってきた多くの料理で小麦粉は活躍してきた。

 そこから生まれる食感は千差万別。調理で変幻自在である。

 狙い通りの味わいを実現させるために最も重要なのが、グルテンの形成具合だ。


 サクサク食感を出したいのなら、生地をつなぐために必要最低限のグルテン形成は求められるが、それ以上になると不要な弾力を帯びてしまう。


「その通り。グルテンは小麦粉の吸水で形成されます。なので先にバターを練り込んでおけば、小麦粉表面を油が覆ってくれるので、グルテン形成を抑えることが出来るんです」

「やっぱり、ちゃんと理由はあるんだね……」


 うららは大きく頷いて深いため息をついた。 

 そこには疑問が氷解した納得感以外に、しみじみとした雰囲気があった。


「……あの、さ。氷彗」


 唐突に、改まって名前を呼ばれる。

 うららは何か言おうと口を開いたり閉じたりしていた。

 だが、言葉らしい言葉は何も出てくることなく、そのままたっぷり十秒ほど沈黙が続く。


「ううん! やっぱり後でいいや」

「……? そう、ですか」


 何を思っているのだろう。

 氷彗は気になってその横顔を盗み見る。

 しかし、目が合いそうになったのでとっさに調理台に視線を戻した。


 冷やし終わった生地を冷蔵庫から取り出し、薄く引き伸ばす。

 布状になったら長方形になるように、四辺を切り落とした。

 それをさらに3ミリメートル幅で均一に細く切っていく。

 切り分けられた生地はまだ柔らかく、スティックビスケットというよりパスタに近い印象だ。


「あとは、予熱したオーブンでこれを焼いていきましょう」

「おー!」


 焼いている間にコーティング用のチョコレートを湯煎で溶かしていると、室内に香ばしい匂いが漂ってきた。


「バターのいい香り~!」


 顎を上げ、うららは鼻から大きく息を吸った。

 蜜に誘われる蝶のように、彼女は瞬く間にオーブンの前へと吸い寄せられる。


「この風味は他の油じゃ出せないよね。焼き菓子って液体油使わないけど……あれって、やっぱり風味付けの問題?」

 

 その質問に、チョコレートをかき混ぜていた氷彗の手がピタリと止まった。


「気になりますか!?」

「うお!? まさかここで!?」


「ビスケットにバターを使う理由……それは、デンプンの糊化を抑えるためです!」

「糊化って、お米が柔らかくなるアレ?」


「はい。グルテンの形成と同じくデンプンの糊化も、焼き菓子のサクサク感を出すためには抑える必要があります。バターのような可塑性の固形脂は、生地の中でフィルム状に広がってデンプンの表面を覆ってくれるんです。これによってデンプンはオーブンで加熱されても十分な水分を得られず、糊化しません。対して液体油の場合、生地の中で油滴となって凝集してしまうので、糊化は止められず、生地も穴ぼこだらけになってしまいます!」


 焼き菓子にバターを使う。

 そんなのはもう当たり前すぎて、ほとんどの人にとっては些細なことなのかもしれない。

 しかし、そこにはちゃんと理由があるのだ。

 そして、その理由を一緒になって楽しんでくれる人も、今は氷彗の隣にいる。


「焼き上がったら、湯煎しておいたチョコレートでコーティングして……冷蔵庫で冷やしたら完成です」


 できあがったスティックビスケットはマグカップに盛りつけた。

 コーティングしたチョコレートはビター以外に、ホワイト、ストロベリーもある。

 その一本一本は互いに上を向き、全体でカラフルな花弁を作り上げていた。


「おぉ~! かわいい~!」


 ひとしきり写真を撮った後、二人はちゃぶ台に移動し、手を合わせた。


「それじゃあ、いただきます!」


 マグカップから一本抜き取り、その先端を口に運ぶ。

 前歯で挟んで手首を捻ると、小気味良い音と共にスティックは二つに折れた。

 鼻腔に広がる薫り高いチョコレート。

 顎から体へと響く歯ごたえの良いビスケット。

 二つの相性は抜群だ。


「おいしい~~~! ポキって音、やっぱり癖になるよね! サクサクの食感もたまらない!」

「自分でトッピングできるのも嬉しいですよね」

「だね。プレーンのには塩を振りかけてもいいし!」


 ホワイトチョコの濃厚な甘味に頬が落ちそうになり——

 ストロベリーチョコの果実の酸味で震え——

 プレーンの塩味で口の中がリセットされる。


 そして、気付けばさらに次の一本を求めてしまう。


 氷彗とうららはそれぞれの味で感想を言い合い、ビスケットを摘んでいった。

 そんな調子が続いたので、マグカップに残る本数が瞬く間に減っていったのも仕方ないことだろう。


「ありゃ? もう最後の一本になっちゃった」

「そうですね」


「氷彗食べる? 私、結構もらっちゃったし」

「いえいえ、うららさんがどうぞ」

「そう?」


 こちらに促されて最後の一本を摘んだものの、うららはどこか物足りない面持ちだった。


「うーん、でもこのまま普通に食べちゃうのはなぁ」


 そこまで言い掛けて、彼女は口をつぐむ。

 そしてふと、何かひらめいたみたいに指を鳴らした。


「いいこと思いついた! 氷彗、口開けて」

「……はい?」


 こちらがその意図を理解する前に、差し出されたビスケットが口元に近付いてくる。

 避ける間もなく、氷彗は反射的に先端をくわえてしまった。

 いわゆる「あ~ん」をしてもらったわけだが、ここで恥ずかしがるにはまだ早すぎた。


「せっかくスティックビスケット作ったんだから。最後はこのゲームをしないとね」

「——っ!?」


 何のためらいもなく、うららは氷彗のくわえていない方の先端に口を添えた。

 二人の唇を隔てる物は、わずか十数センチの焼き菓子だけである。

 氷彗は暴れ回る心臓を抑えようと視線を逸らそうとしたが、視界はうららでいっぱいで、どこを向いても無駄だった。

 ここまで来て、氷彗にはようやくうららが何をしようとしているのか分かった。


「分かってると思うけど、先に口を離した方が負けだから。勝った方は一つお願い聞いてもらえるって事で」

「~~~~!?」


 鼓膜を震わせるうららの声は、しかし氷彗の頭にはほとんど届いていなかった。

 処理しなければならない情報量は、とっくに臨界点を超えていたのだ。


「よーいドン!」


 既に近すぎるうららの顔が、さらにこちらに近付いてくる。

 迷いなく伸びた睫毛、まぶしい瞳、髪の間から香る匂い。

 それらは五感を通じ、氷彗の理性に総攻撃を仕掛けてきた。


 途端に体温がどんどん上がっていくのを感じる。

 まるでサウナに閉じこめられたみたいだ。

 脈も鼓動も鼓膜に跳ね返るくらいうるさかった。


 ビスケットの長さは残り数センチ。そこまで短くなったところで、うららの吐息が首筋にかかる。

 氷彗の体がぞくりと震え、その拍子にポキっという音が響いた。


「へへっ。私の勝ーち!」


 瞬間——

 重なりそうなほど迫っていたうららの顔が横に逸れた。

 しかし、離れることはなく、むしろこちらへ飛び込んでくる。


 色んな事が一度の起きたせいで事態を飲み込めない氷彗だったが、包まれるような温もりを感じ、うららにハグされたということを理解した。


 今、二人の体はぴったりとくっついていた。


 心臓の音が伝わってしまわないだろうか。

 暑苦しいと思われないだろうか。

 そんな心配をしていると、氷彗はある違和感に気付いた。


「……うらら、さん?」


 鼓動も、肌の熱も確かに感じる。

 しかし、それは氷彗だけのものではなかった。


「氷彗、ありがとね。私のために色々、頑張ってくれて……助けてくれて」


 耳元で囁かれたのは、感謝の言葉。

 その声色は、先ほどまでとはまるで異なっていた。


「……お礼の言葉はオムライスの時、もう十分すぎるくらい頂きました。もらいすぎです」

「ううん。あの時は、自分のことでいっぱいいっぱいだったから。改めて、言いたかった。ありがとう、氷彗」


 背中に回る手に、ぎゅっと力が入る。


「もしかしたら、これからも迷惑かけちゃうかもしれない。面倒なこと言っちゃうかもしれない。気を付けるけど、ゼロには出来ないと思う。それでもさ、氷彗が許してくれるなら……これからも一緒にいさせて下さい」


 それが、ゲームの勝者である彼女からのお願いだった。 

 とても当たり前のことで、だからこそとても大切なお願い。


 きっとうららは、このタイミングをずっとうかがっていたのだろう。

 生協で会った時や料理中、しばしば様子がおかしかったことを氷彗は思い出した。

 しかし、きっかけがなかったからなのか、彼女は言い出すことが出来なかった。

 だから、今こうしてゲームという体裁を借りて、何とか伝えようとしてきたのだ。


 その意図が分かってしまうと、くすりと笑みがこぼれてしまう。

 今さらそんなこと、心配しなくてもいいのに……


 お返しにと、氷彗もうららの背中に手を回した。

 力一杯抱きしめて、聞き逃さないよう彼女の耳元にささやく。


「もちろんです。うららさん」


 秋も終わりが見えてきて、もうすぐ冬がやってくる。

 そうなれば真夜中の研究棟は、ますます肌寒くなっていくだろう。

 しかし、それは決して悪いことではないのかもしれない。


 その分だけ、互いの温もりを感じられるのなら。


(秋編おしまい)

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研究棟の真夜中ごはん 神岡鳥乃 @kamioka-torino

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