第8話 燻製・もくもく・不完全(後編)
❄❄❄
いつも通り二人で片付けをした後、うららは再びちゃぶ台に座って、銀色のチューハイ缶を開けた。
「いや~、あんまりおいしかったから、お酒飲むのが遅れちゃったよ。まだ、二缶余ってる」
そう言って飲み始めると、うららの無防備な喉が上下する。
このままだと、全部飲み干してしまいそうな勢いだ。
パッケージはジュースのようなデザインだが、示されたアルコール度数は高い。
氷彗は心配になって声をかける。
「塔山さん……飲みすぎじゃありませんか?」
「そんなことないって、これくらい」
飲むペースが落ちる気配はない。
どうしようかと考えた挙句、氷彗は思い切ってまだ開けられていない缶を取った。
「あの……よければ一缶、頂けませんか?」
「私も、飲みたくなったので」と付け足すと、うららは驚いたように睫毛を持ち上げる。きっと、自分は飲まないタイプと思われていたのだろう。
実際、その通りだが。
「どうしたの? 何かいいことでもあった?」
「今日、飯塚先生と議論しているときに……私のこと、話しやすくなったと言ってくれたんです。今まで、ずっと口下手だった自覚があるので、嬉しくて」
とっさに、思い付いた理由を口に出す。
「そっか、それはよかった」
可笑しげにうららが口の端を吊り上げた。
それは、確かに笑顔であるはずなのに、いつも見せるまぶしいものではなく、どこか作り物めいていた。
正体は分からない。でも、確実に不安は押し寄せていた。
氷彗は、それをかき消すように言葉を紡ぐ。
「きっと、塔山さんのおかげです。塔山さんが、私とたくさん話してくれたから……」
しかし、かき消されたのは、氷彗の方だった。
「そんなことないよ」
「いいえ、本当です。だって」
「そんなことない」
有無を言わさない声色に、氷彗は何も言えなくなる。
「私は、何もないよ」
「……塔山さん?」
「落ちちゃったんだ、再投稿した論文。ここ半年、色々妥協して、
うららの笑顔は作り物めいたものから、とうとう自嘲的なものへと変わってしまった。
「やっぱり、鳥見川さんみたいに、うまくいかないや」
そこで、氷彗は初めてうららの抱いている感情を垣間見た。
成果が認められなかった悔しさに加えて、そこには自分に対する嫉妬も含まれていた。
その黒い感情を、純粋にぶつけてくれた方が、まだましだったように思える。
しかし、まっすぐで優しいうららが取った行為は、そんな己を責め立てるように、アルコールを流し込むことだけだった。
氷彗には、そちらの方がつらかった。
「ごめん……意地悪だったね。今のは、忘れて」
帰り支度をしたうららが、静かに立ち上がる。
付いていける様子ではなかった、と言うのは簡単だ。でも、それは体の良い逃げ口上に過ぎない。
とどのつまり、拒絶されるのが怖かっただけだ。勇気が、出なかっただけだ。
「今日はもう帰るよ。ごめん」
がらんとした休憩室には、いつの間にか降り出していた雨の音だけが響いていた。
開けっ放しの窓から、冷たい滴が入り込んでくる。
うららのために、自分は何ができるだろうか。
一人取り残された氷彗は、真夜中の研究棟でそれだけを考えていた。
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