第1話 逢い引き・はじまり・ハンバーグ(後編)
キッチンに立つという行為が、そもそもうららにとっては数年ぶりだった。研究室に配属されてからというもの、日々の忙しさにかまけて惣菜かインスタント食品に頼りっきりだったからである。
故に、今、目の前に広がる食材の並んだ光景は、新鮮そのものだった。
「へぇ……ハンバーグって、味的には”肉”ってイメージしかないのに、色々材料あるんだね?」
うららのとなりでは、氷彗がピンク色の挽き肉をこねている。それに混ぜ合わさった白い粉が気になり、うららは疑問を口にした。
「どうして、パン粉とか使うの?」
ギョロリ——
それまで柔らかそうだった氷彗の瞳が、険を帯び豹変する。
うららは初めて母親と料理した時のことを思い出し、焦って手を振った。
「ご、ごめんね! 鬱陶しかった」
「気になりますかっ!?」
「……う、うん?」
てっきり小言を浴びせられると思っていたが、氷彗にそんな素振りは一切なく、こちらにぐいぐいと迫ってきた。
「挽き肉は加熱することで、タンパク質が縮まって固まります。それによって、肉汁が外に出て行ってしまうんです! すると、ハンバーグは硬くなってしまいます。それを防いでくれるのが、パン粉です! パン粉は挽き肉やタマネギから溢れた水分や肉汁を吸収して、ハンバーグをふっくらに仕上げてくれるんです!」
先ほどまで噛みまくっていた人物とは思えないほどに、氷彗は饒舌に流暢に言葉を連ねた。どうやら、うららの質問が氷彗のスイッチを入れてしまったらしい。
しかし、うららにとって氷彗の変貌は願ったり叶ったりだった。
「じゃあ、タマネギは?」
「甘みや、まろみを加えてくれる他に、お肉の臭みを取ってくれる効果があります。タマネギにはタンパク質を分解してくれる酵素、プロテアーゼが含まれていて、それが臭みの原因になっている物質を消してくれるんです」
「じゃあ塩! どうして、挽き肉に塩を混ぜてから練るの?」
「ハンバーグがしっかり形を作れるようにするためです! 塩を加えると、お肉に含まれるミオシンというタンパク質が抽出されます。ミオシンは加熱されると固まって、ハンバーグ全体に網の目のような構造を作ります。それが繊維となって全体をつないでくれるんです!」
ずっと天下り的な作業の連続で、何となく敬遠していた料理に対する「どうして?」の答え。
「……ちゃんと、あったんだ」
うららが感心している中、小判形に形を整えられたハンバーグがフライパンへと投入された。
「それでは、いよいよ焼いていきます」
二つのハンバーグが熱されたステンレスの上でジューッと音を立て、湯気と肉の香りが立ちこめる。
「肉汁が逃げないように、最初は強火で一気に表面を固めます。その後は、表面を焦がさないように火加減を調整して、中までしっかり熱を通します」
氷彗がフライ返しでハンバーグをひっくり返すと、おいしそうな焼き目の付いた表面が現れた。
「おぉ、ピンク色だったお肉が、こんがり茶色に!」
「はい! 血の色素のタンパク質、ミオグロビンが熱で変性して、メトミオグロモーゲンになると、この色になるんです!」
十分に火が通ったことを確認して、氷彗はハンバーグを平皿に盛りつけると、その上でペッパーミルのハンドルを回した。
「味付けに塩胡椒を少々まぶして、完成です!」
うららはできあがったハンバーグをちゃぶ台まで運び、氷彗と向かい合う形で座ると、パンと音を立てて手を合わせた。
「それじゃあ、いただきます!」
ナイフとフォークは持っていなかったので、割り箸ではさみ端から一気にかぶりつく。
瞬間、口の中でじゅわっと肉汁があふれ出た。
熱を閉じこめた肉は、最初こそ歯ごたえを感じたが、噛めば柔らかくほどけ、さらにあふれる肉汁と絡まり、もつれ合い、じんわりと溶けていく。
こしょうの香りが鼻孔を駆け抜け、さらに食欲を引き立てる。
これでは、口も手も休まらない。
「おいしい! ここ十年、惣菜かC●C●Sのハンバーグしか口にしなかったけど、全然違う! しっかりボリュームがあるんだけど、柔らかくて、肉汁がじゅわーってきて!」
「よかったです。お口に合って!」
結局、五分とかからずハンバーグは全て胃に収まってしまった。
「おいしかったぁ~~」
二人は満面の笑みを浮かべながら、空になった皿に手を合わせた。
***
至福の夜食を食べ終わると、食器と調理器具を流しで洗う。
氷彗のスイッチはもう切られてしまったみたいで、今は初対面の時同様、すっかりおとなしくなっていた。
「ところで、鳥見川さん。どうして、こんな時間に研究棟で料理してたの?」
「それは……」
スポンジを握る氷彗の手に、力が入る。すると、白い泡がこぼれ落ちた。
「私の研究室、人数に比べて実験装置の数が少ないんです。立場が上の人から順番に使用時間を決められるので、私みたいな新人は、大抵使えるのが深夜で」
「あー、なるほど」
「あと、ここの休憩室の設備があまりにも高性能だったので、誰も使っていないのを見ると、もったいなくてむずむずして、いても立ってもいられず……」
「ごめん、それは分からない」
大まじめな氷彗の表情に、思わず苦笑がこぼれてしまう。
「塔山さんは?」
「私? 私は単純に生活サイクルがぶっ壊れているだけだよ。まぁ、日中は教授の講義の手伝いとか、他の学生の論文手伝ったりして、自分の研究はいっつも夜になっちゃうんだけど」
「そう、なんですか」
そこから話をつなげようとしたのだが、とうとう洗い物も全て終わってしまい、休憩室には真夜中の沈黙が漂う。
うららは隣を一瞥した。
奇妙な形で、こうして一緒に夜食を食べたわけだが、相手のことは、まだ何にも分からない。だが、一つだけ共通するものを見つけた。それは、互いに生活のメインが夜であるということだ。
そこからうららの頭に、ある考えが浮かんだ。
とても些細なことだが、口にするには勇気のいる提案が。
「「あの!」」
鏡合わせのように、うららと氷彗は同時に口を開いた。
「鳥見川さんからどうぞ」
「い、いえ、塔山さんの方から」
「……なら、お言葉に甘えて」
ごくり、と固唾を飲み込む。
氷彗とは研究室も違うし、接点もない。加えてこれから提案する内容は、やや厚かましいものだ。
しかし、深夜テンションでなければできないお願いもある。
うららは意を決した。
「鳥見川さんって、これからもこの時間、ここで料理する感じ?」
「は、はい」
「じゃあ、さ。もし、時間が合えば……また、一緒にごはん、食べてもいいかな?」
ぴくっと、氷彗の肩が震えた。
「あぁ! もちろん、嫌だったら全然大丈夫だよ!」
「いえ……私でよければ、その、喜んで」
頬を赤らめながら、氷彗は小さく笑みを湛えた。
こうして——
研究棟で食べる、真夜中ごはんが始まった。
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