研究棟の真夜中ごはん

神岡鳥乃

第1話 逢い引き・はじまり・ハンバーグ(前編)

こちらのお話は、


・二人がご飯を作って食べるだけのお話です。

・ファンタジー要素はありません。

・幽霊、あやかし要素はありません。

・ミステリー要素はありません。


また、科学的説明はあくまでスパイスです。

つまらなかったり、面倒くさければ、読み飛ばしてもらっても全然大丈夫です。


以上の点にご注意の上、お腹を空かせてお読みください。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 初めて料理をしたいと言ったとき、お母さんを随分と困らせたのを覚えている。

 幼い頃、私にとって料理は魔法だった。

 それだけでは味気ない食材を、混ぜたり、こねたり、焼いたりして、ほっぺが落ちそうなくらいおいしいものに変えてしまう、不思議な技。

 その秘密を知りたくて、私はお母さんに教えてとせがんだ。

 でも、初めての料理は思い描いていたものとは、どこかズレていた。

 過程を一つ一つ指示されては、その通りに手を動かすだけの行為は、なんだか、つまらない作業みたいに感じてしまったのだ。


 「次はこうするのよ」と言うお母さんに、私はいちいち食いついた。

 「どうして? どうして?」と。


 ***


「どうしてなんか、わかるか—————————————————————い!」


 四月初旬の夕暮れ時。

 名知大学、農理学研究棟の一室で、塔山うららは叫んでいた。


 PCのデスクトップには、たった今終了したシミュレーションの結果が表示されている。

 パラメータをいじり、手法を変え、これで七度目の挑戦である。

 しかし、計算結果はとても報告できるような内容ではなかった。


 「どうして? どうして?」と探求心の絶えない性分であったうららは、大学に進学し、修士課程に進学し、とうとう博士課程に進学してしまった。

 そして今、こうしてぺたんとデスクに突っ伏して長いため息を吐いている。


「塔山さん、お疲れ」


 研究室の扉が開かれる。

 入ってきたのは、ほっそりとした白髪の老人。丸眼鏡をしていて、くたびれた背広には僅かにチョークの粉が降りかかっている。きっと新学期初めての講義だったのだろう。


 うららは、老人もとい自分が所属する研究室のボスに会釈した。


「お疲れさまです、田宮教授」

「今日も遅くなりそうですか?」

「えぇ、その……結果があまり芳しくないもので」


 今回の計算で、いや今回も、何の成果も得られませんでした! とは声高らかに言えるはずもなく、うららは言葉を濁す。


「頑張るのは結構なことですが、あまり暗くならないうちに帰ることをおすすめしますよ。何でも最近、研究棟で不審者が目撃されたらしいので」

「不審者?」

「真夜中の研究棟で、刃物を持ってうろついていたらしいです。全学のメールにも回ってきてますよ」

「……あ、本当だ」


 メールボックスを開いてみると、注意喚起のお知らせが届いている。

 文面を追いかけてみると、次のようなことが書かれていた。

 目撃者の学生曰く、真夜中に実験をしている最中、この農理学研究棟で見知らぬ女性と遭遇したらしい。

 長い黒髪、全身を覆う真っ白い装束。そして右手には、ギラリと光る刃物。それを見た学生は、パニックになってその場から逃げ出したということだった。


「う~ん。でもこれ、特徴は完全に幽霊ですよね。深夜まで実験してた学生が、寝ぼけていただけじゃないですか?」


 この農理学研究棟は、夜八時以降に全ての扉が自動で施錠されるので、キーを持っていない部外者は立ち入れない。セキュリティは問題ないはずだった。


「それなら、ただの笑い話ですみますが……まぁ、気をつけて下さい。塔山さんは、女の子ですから」

「女、ですけど、子が付くかどうかは結構厳しいと思うんですが」

「僕からすれば同じですよ……おっと、いけない。孫との夕食に遅れてしまうので、僕はこれで」


 田宮は腕時計を確認すると、慌てて荷物をまとめ、研究室を後にした。

 室内は再び、うららの独壇場になる。


「教授、孫ができてから帰るの早くなったなぁ」


 パーテーションで区切られた田宮のデスクをちらりと覗く。その一角には、孫の誕生日に撮ったと思しき食卓の写真が飾られていた。


「誰かと、ごはん……か」


 そう言えば、もう何年もしてないな。

 うららは、ぼんやりとそんなことを思いながら、再び結果の考察を再会した。


***


「ありゃ?」


 真夜中の一時。

 腹の虫が鳴り、カップラーメンを食べようとしていたうららだったが、なかなかお湯が沸かないことに気付いた。

 見てみると、研究室の流しの近くでスイッチを入れていたはずの電気ケトルが、故障していた。


「寿命かな? ま、仕方ない。休憩室の鍋とコンロを使おう」


 休憩室とは研究棟二階に設けられた食事スペースだ。

 なぜかシステムキッチン一式が設けられており、テーブルはなく、ござとちゃぶ台が広がっている。海外から招いた教員を喜ばせるためにそんな造りにしたらしいが、あまり使われてはいなかった。


「に、二階ってこんなに暗かったっけ?」


 階段を下りてみると、ひんやりとした空気がうららの肌を這い上がった。自分の足音がやけにうるさく、薄暗い緑の非常灯がいやに不気味だ。


 不審者、という言葉がうららの脳裏に蘇った。


「あぁ、もう。どうしてこんな時に思い出すかな」


 スマホのライトを使おうとポケットに手を伸ばすと、不意にブーっとバイブレーションが起こった。


「ひっ——!?」


 口から心臓が飛び出しそうになったが、とっさに飲み込む。

 光った画面を見ると、新着メッセージの通知だった。


「な、何だ凪か。まったく、おどかさないでよ……」


 へろへろと、肩の力を抜いた瞬間--

 カッ、カッと乾いた足音が、うららの後ろから響いた。


 固唾を飲み、恐る恐る振り返る。

 すると、そこには長い黒髪の白装束の女がいた。

 右手には、非常灯の緑を返し、ギラリと光る鋭い刃物。


「で、でででででで出た————————————————————————!」


 その言葉を最後に、うららは意識を手放した。


 ***


 瞼越しに、光を感じる。次いで、い草の柔らかい感触と香りが伝わってきた。どうやら、ここは休憩室らしい。


「よ、よかった。気が付きました?」


 瞳を開いて最初に飛び込んできたのは、見知らぬ美少女だった。

 滑らかな黒髪に縁取られた、華奢な体躯。顔立ちは人形のように整っていて、白い肌とは対照的に、その双眸は吸い込まれそうな漆黒だ。

 彼女の全身を覆うのは、この研究棟でおなじみの白衣、ではなくレースの入ったエプロンだった。


 その美しさに見とれていたうららだったが、徐々に気絶する前の記憶が思い出されると、恐怖から声が漏れた。


「ひぇっ!?」

「ま、待って。落ち着いて、下さい。私、怪しいものじゃないんです!」


 相手はぎゅっと目を閉じて、何かを差し出してきた。

 名刺のように思われたそれは、名知大学の学生証で、彼女の身分を記している。うららは、その名前を読み上げた。


鳥見川とみかわ氷彗ひすい?」

「この春から、こちらの大学院に進学した、修士課程の一年生、です。その、普段は三階にいるんですが……」


 よかった……ここの学生だ。不審者じゃなかったんだ。

 うららはほっと胸をなで下ろすと、全身を縛っていた緊張感が解けていった。


「あー、ってことは、飯塚研かな? ドラッグデザインとか代謝とかやってる」


 うららの言葉に、氷彗の睫毛が大きく持ち上がった。


「ど……どうして知っているんですか?」

「そりゃ、同じ研究棟だしね。三年もいれば大体分かるよ」


 相手の素性も明らかになり、完全に警戒心が薄れたうららは、手を差し出した。


「私、塔山うらら。四階の田宮研で、シミュレーションやってるんだ」

「塔山、うららさん。分かりました。私は」

「鳥見川さん、でしょ? もう覚えたよ」


 握手をした氷彗の手は、体質なのかヒンヤリしていた。

 安心すると、忘れていた空腹感が再び顔を出してきた。

 うららは自分のカップラーメンを探そうと、キョロキョロと辺りを見回していたら、システムキッチンの上に挽き肉の入ったボウルを見つけた。


「もしかして鳥見川さん、ここで料理作ってたの?」

「は、はい。今日はハンバーグを」

「ハンバーグ!?」


 うららは目を輝かせ、食欲のせり上がるまま、ぐいっと身を乗り出す。


「……もしよければ、完成したら、一緒に食べます?」

「え……いいの?」

「その、驚かせてしまったお詫びを、したいので」

「そういうことなら、お言葉に甘えて!」


(後編に続く)

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