第2話 こころ・しみしみ・肉じゃがと(前編)

こちらのお話は、


・二人がご飯を作って食べるだけのお話です。

・ファンタジー要素はありません。

・幽霊、あやかし要素はありません。

・ミステリー要素はありません。


また、科学的説明はあくまでスパイスです。

つまらなかったり、面倒くさければ、読み飛ばしてもらっても全然大丈夫です。


以上の点にご注意の上、お腹を空かせてお読みください。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 スマホから流れてくるアラームを止めて、鳥見川氷彗とみかわ ひすいは下宿のベッドで目を覚ました。

 ぼんやりとしていた意識が、昨日の記憶を呼び覚ましていく。


 おいしい!!——


 鼓膜に蘇ったうららの声に、思わず氷彗の唇がゆるんだ。


「おいしい……ふふっ」


 誰かに料理を振る舞って喜んでもらうなんて、いつ以来だろう。

 この春から環境が変わって、少し憂鬱になっていた氷彗だったが、今は胸が軽くて足をパタパタとさせてしまう。

 だが、さらに記憶が鮮明になっていくにつれ、背中にぞわりと寒気が走った。


 気になりますかっ!?——


「あ、ああぁ」


 紅潮した氷彗は、口元で波打つように指を震わせる。

 

 挽き肉は加熱することで、タンパク質が縮まって固まります!——

 タマネギにはタンパク質を分解してくれる酵素、プロテアーゼが含まれていて!——

 ミオシンは加熱されると固まって、ハンバーグ全体に網の目のような構造を作ります!——

 

「ううぅうぅぅぅうううう」


 思い出した自分の声は、一方的で早口で、枕に埋もれて叫び出したくなるほどに恥ずかしかった。


 やっちゃった。

 どうしよう、絶対引かれた。


 どんよりと、氷彗に頭に暗い雲が覆い被さる。

 うららの言葉を思い出しても、それは変わらなかった。


 また、一緒にごはん、食べてもいいかな?——


「別れ際の、社交辞令……ですよね」


 ***


 ネガティブな思考が止まらなくても、時間は無慈悲に巡っていく。

 氷彗ひすいは研究室のコアタイムに間に合うように、農理学研究棟へと向かった。


 一階でエレベーターが来るのを待っていると、後ろからいくつかの声が聞こえてくる。その中には、聞き覚えのあるハキハキとした女声も混じっていて、誰のものなのか氷彗はすぐに分かった。

 うららだ。

 彼女の左右にいるのは、おそらく同じ研究室の教授と後輩だろう。


 なんだか、気まずい。


 氷彗はそう思って階段に向かおうとしたが、それを見計らったかのようにエレベーターの扉が開く。

 背後にうらら達の気配も感じたので、氷彗はやむなく小さな密室に乗り込むしかなかった。


 うららはこちらの存在に気づいたのだろう。何度か視線を感じる。しかし、それがまた気まずさを助長させた。

 うらら達が議論している内容は、氷彗にはよく分からない。

 ただ、物怖じせずに教授に意見したり、後輩の質問に答えるうららの口調や雰囲気は、凛として格好良く、ハンバーグを一緒に食べていたときのそれとは、まるで違う気がした。


 もしかして、昨日は変に気を使わせてしまったのかな……


 ポン、という音と共にエスカレーターの扉が開くと、氷彗はいたたまれなくて、その場から逃げ出すように飛び出した。


 ***


 いつも人付き合いで失敗する。

 子供の頃から、それは変わっていない。

 普段は小さな声で、はっきり物が言えないのに、特定の話題になると、火がついたみたいに、我を忘れ、のべつまくなしに吐き出してしまう。


 小学校から大学に至るまで、その失敗をするたびに、次こそは気をつけようと心に誓うのに、この悪癖は条件反射のレベルに達していて、抜け出すことはできなかった。


 そして、落ち込んでいる時ほど、嫌になるくらいに作業は進む。

 これも子供の頃からだ。

 勉強が得意だったわけではない。

 嫌な気持ちを忘れるために、集中していたら結果的にできるようになったというだけだ。大学に進学してから、勉強は研究となったが、氷彗にとっては同じだった。


 計器に記録されたデータをざっと確認し、仮説を支持できるものだと悟る。解析もしてしまおうかと思ったが、すでに深夜の一時を回っていたのでやめることにした。


 実験器具を洗浄し、戸締りを確認して、実験室を消灯する。

 院生室に戻り、荷物をまとめていると、空腹感が胃の中を駆け巡った。


 氷彗が今日の夜食について考えていると、何故かうららの顔が浮かぶ。


「…………」


 何やってるんだろう。

 自分で呆れながら、非常階段に出る。

 季節は春だが、夜はまだまだ肌寒かった。

 コツンコツンと音を立てて、折り返しまで上り、うららの研究室がある四階を見つめる。電気はどこにも灯っていなかった。

 ついでに下の階も確認してみる。こちらも暗い。


 今、研究棟で光っているのは氷彗のいる三階だけだった。


「……もう帰った?」


 気まずさが和らぐ反面、なんだか虚しい。

 半分気乗りしない旅行が、雨で中止になった時のような感覚だった。


 何を、期待していたんだろう。

 うららは同輩でもなければ、同じ研究室でもない。昨日の言葉だって深夜テンションで出てきた勢いの約束だ。


 そうやって自分に言い聞かせ、納得しようとしてみるけれど、やっぱり心はぐにゃりと崩れそうだった。


 ※※※


 嫌なことがあった時は、大好きな料理をするに限る。

 休憩室のシステムキッチンの上に材料を並べ、氷彗は腕まくりをした。


「では、始めていきましょう」

「おー、今日は肉じゃがなんだ?」

「はい! 昨日のハンバーグで余った挽き肉を……っ——!?」


 どこからともなく聞こえてきた合いの手に、ビックリして飛び上がる。

 振り返ると、うららが困惑気味に笑みを浮かべていた。


「あはは、今日は私が驚かせちゃったね」

「と、塔山、さん?」


 氷彗は目をパチクリとさせた。

 うららは氷彗より頭一個分は大きな背丈で、話そうとすれば見上げてしまう。

 首筋まで伸びたスポーティな栗毛。すっと鼻の通った端正な顔立ち。意志を感じさせる瞳はブレることなく、真っ直ぐにこちらを覗いていた。


「あれ? そんなに意外だった?」

「だって、その、電気が消えていたので、もう、帰ったと思って」

「あぁ、今日はサーバールームで作業してたから」

「サーバー、ルーム?」

「でっかいパソコン置いてる所。元は物置だから、窓も付いてなくて光も漏れないんだよね」


 深夜の静寂を切り裂いて、はっきりとした声が鼓膜を震わせる。


 どうしよう。なんて返そう?

 氷彗の頭の中が、ぐるぐる回る。

 取り敢えず、謝らなきゃ。昨日のこと、今日のこと。


 そう思って口を開く寸前、氷彗はうららに先を越された。


「今日はゴメンね! エレベーターで話しかけられなくて、気まずかったよね」

「っ!? いえ、その、私の方こそ、昨日は塔山さんのことも考えず……料理の話をベラベラと」

「あれ、すごいよね!」


 対話が繋がっていないように思えたが、うららは興奮気味に続けてくる。


「普段何気なく食べてる料理について、知らないことたくさん分かって、めちゃくちゃ楽しかったよ!」


 氷彗の瞼が大きく開く。

 心に、涼風が駆け抜けたみたいだった。


 それまで誰とも共有できなかった、一人ぼっちの楽しいを、目の前のうららも感じている。

 初めてのことで、嬉しいどころの話ではなかった。

 鼓動の音がうるさくて、身体中が熱くなった。


「ねぇ、今日も教えてくれないかな?」

「……はい!」


(後編に続く)

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