第23話 フルーツ・タルト・チークキス(後編)

 ❄❄❄


 金曜日の黄昏時。

 いつもより早い時間に研究棟の休憩室へ訪れると、見慣れない顔があった。


「あ、姉さん!」


 ちゃぶ台のある畳スペースでは、三人が談笑していた。そのうち二人は塔山うららと新庄凪。氷彗にとって数少ない友人だ。

 しかし、年上の彼女たちがこちらを「姉さん」などと呼ぶはずがない。


「暮葉……ちゃん?」


 残る一人の名前を、戸惑いつつも口ずさむ。

 とてとてとこちらに駆け寄ってきたのは、従姉妹の雨晴暮葉だった。

 銀フレームの眼鏡の奥から、くりくりとした瞳がこちらを覗いていた。

 盆休み以来見ていなかったツインテールはずいぶんと伸びている。

 暮葉は今、11歳のはずだ。小学生が大学の研究棟にいる状況に困惑する氷彗だったが、凪は至って平然とした様子だった。


「お、来た来た。久しぶり、鳥見川さん。学祭ぶりだっけ?」

「お久しぶりです。あの、どうして暮葉ちゃん……私の従姉妹がここに?」


「さぁ。おじいちゃんの仕事場見学に来たら、たまたまここに迷い込んだってていらしいよ」

ていって……」

「先生は私の先生なんです! 夏からたっくさん実験して、カガクの業を伝授してもらってます」


 興奮気味に暮葉は凪の袖を掴んだ。その姿はどことなく元気なハムスターを連想させる。

 二人の付き合いは長いのだろう。暮葉はすっかり凪になついている様子だった。

 そう言えば、彼女の小学校は凪の勤める科学館に近かったような気がする。

 そんなことを思い出していたら、うららは感動したようにため息を吐いた。おもむろにこちらへ手が伸びてくると、氷彗はドキッとした。


「へー、並ぶと本当に氷彗とそっくり。特に目元とか」

「はいはい、過度なスキンシップはそこまで。それじゃあ鳥見川さん、お願いしてもいいかな?」


 促されて、氷彗は「は、はい」と上擦った返事をした。

 暮葉の存在にすっかり気を取られていたが、ようやく今日呼び出された内容にたどり着く。


「科学館のハロウィンパーティで出すスイーツの試作、だっけ? 何作るの?」

「ふ、フルーツタルトにしようかなと。手乗りサイズの小さなものです」


「いいね、それなら配りやすそう」

「フルーツタルト! 姉さん、私フルーツタルト大好きです!」

「私も!」


 まだ何も作っていないというのに、熱い視線が氷彗へと注がれる。

 緊張する一方、多くの期待を寄せられていると思うと胸の辺りがこそばゆい。

 これは失敗できないと、氷彗は気合いを入れた。


 キッチンスペースへと移り、材料を作業台に並べていく。


「小麦粉、バター、卵……パイ生地の材料ってケーキと同じだね、この前作った」

「パンの材料ともそっくりです」


「でも、ケーキやパンはふわふわもちもちしているけど」

「パイ生地はどちらかというと、サクサクといった食感です」


 氷彗が生地をこねていると、まるで連携するかのように両隣から好奇心が伝わってくる。


「「どうして……」」


 重なる疑問の声は、左右の鼓膜を同時に震わせた。

 それは氷彗のスイッチを入れるには十分すぎるものだった。


「気になりますか!」


「うん!」

「気になります!」

「……予想してたけど、今日は一段と騒がしくなりそう」


 生地を練り終え、いったん冷蔵庫に休ませる。

 その間、氷彗は歯止めをかけず、機関銃のように語った。


「材料が同じなのにパイ生地だけ食感が違う理由……それは、水分が極端に少ないからです! パンやケーキの生地は、水で小麦粉のデンプンが糊化し、グルテンが形成されることで一つに繋がっています。対してパイ生地は、小麦粉同士を脂肪でコーティングして分離させているんです。水分が少ないので、糊化するデンプンも半分以下です」


 なるほど、と二人がうなずいている中、凪はふと何かに気付いた。


「あれ? 鳥見川さん。そのバター、日本のやつじゃないよね?」

「気付きましたか!?」

「う、うん……」


「これはヨーロッパのバターです。日本のバターの規格に比べて脂肪分が多く水分が少ないので、パイ生地作りにはうってつけです!」


 夢中になって話していると、時間はあっという間に過ぎていく。

 冷蔵庫に張り付けておいたタイマーはゼロになり、ぴぴぴと無機質な音を上げた。生地を取り出してみると、すっかり均一になじんでいる。


「生地ができたら、これを型に敷いていきます。当日もできれば、黒いセラミック製のものを使用して下さい」

「焼いちゃえば同じだと思うけど……型の素材でそんなに変わるの?」


 何となくこぼれたうららの言葉に、氷彗は大きく食いついた。


「全然違います! 光沢がある型はオーブンの放射熱を反射して、生地に熱が伝わりにくくなってしまうんです。それに金属製の型は蓄熱性が低いので、生地の焼き加減にムラができてしまいます。その点、黒ければ放射熱を効率よく吸収しますし、セラミックは蓄熱性が高いので、パイ生地を焼く型としてとても優秀なんです」


 パイ生地を型に敷き詰め、フォークで穴を開けていく。型くずれを防止するために上から重し石を乗せたら、熱しておいたオーブンに投入した。だらだら熱してしまうと生地が崩れてしまうので、短時間でさっと火を入れる。


 焼きあがった生地は、ほんのりバターの風味を漂わせていた。表面にはキツネ色の焼き目がこんがりと浮き上がり、これだけでもおいしそうだ。


「オーブンから取り出したら、まず粗熱をとって……その後、生地にフルーツの水分が染み込まないよう、まんべんなくカスタードクリームを塗っていきます。最後にたっぷりマスカットとグレープを乗せ、ツヤ出し用にゼリーを薄く塗って……出来上がりです!」


 完成したスイーツは蛍光灯の光を反射させ、まばゆいばかりに輝いていた。

 宝石を思わせるフルーツが乗ったタルトは、さながら王冠のようである。


「花びらタルトにカラフルなフルーツ……とても、きれいです」

「上に乗せる具を色々変えてみるのもアリだね。チョコレートとかジャムとか」

「それいい! 凪、パーティ当日は色んなの作っといてね!」

「残念でした。ハロウィンパーティの参加上限は十二歳までです」


 たわいない会話を挟みつつ、今宵は四人でちゃぶ台を囲む。

 そして、皆で手を合わせた。


「それじゃあ、いただきます!」


 小さくてしっかりと固まったタルトは、ナイフで切り分けられそうにない。

 氷彗は指で端をつまむと、フルーツをこぼさないよう口へ運んだ。


 サクサク、ジュワワ——


 全く異なる食感が、それぞれ顎の上下に伝わっていく。タルトとフルーツのものだ。

 クッキーのようなバター風味に酔いしれていると、いつの間にかマスカットの甘酸っぱさに震えている。

 カスタードの濃厚な甘さは、忘れた頃にやってきた。


 一つの料理のはずなのに、味わいがあっちに行ったりこっちに行ったり。

 食べていて全然飽きない、不思議で楽しいスイーツだ。


「ん~、おいしい!! さすが姉さんです! あ、先生のお菓子ももちろん好きですよ!」

「小学生がそんなフォローしなくていいから。でも、本当においしい。これなら当日盛況すること間違いなしだね」

「サクサクなのに、ジューシーで……色んな甘さがこの一つにギュッと詰まってる! すごいよ氷彗!」


「お、お口に合って何よりです」


 こんなに大勢で食卓を囲むのは久しぶりだ。

 加えて方々から飛んでくるのは賞賛の嵐。

 むず痒い気持ちは増していく一方だった。


 口元に残ったカスタードをぺろりと舐めとる。

 舌にじんわり広がっていく優しい甘さは、氷彗を包み込む温かさとよく似ていた。


「ごちそうさまでした」


 ❄❄❄


 やけに静かだ。

 皿洗いを終えた氷彗は、そんな違和感を覚えた。

 振り返ると、この中で最も元気だった暮葉がくぅくぅと寝息を立てていた。畳に正座する凪の腿を枕にして、無防備に体を預けている。


「寝てしまいましたね」

「だね。うちの科学館来たときも、大体こんな感じ」

「結局、新庄さんと暮葉ちゃんは、どういった関係なんですか?」


「関係って、そんな具体的なものはないよ。一度この子の小学校で課外授業したら一目惚れされて、それ以来付きまとわれてるってところかな?」

「付きまとわれてるって……ほ、本当はいい子なんです。ただ、ちょっと元気がよすぎるだけで」

「このレベルはちょっとじゃないでしょ……まぁ、騒がしいのがいなくなって退屈してたから、ちょうどいいかな」


 含みを持たせて、凪が視線を移す。その先には、入念に口元を拭くうららがいた。

 こちらに気付くと、彼女は小首をかしげた。


「え、何? まだ顔にクリームか何か付いてた?」

「何でもない」


 ぶっきらぼうに言うと、凪は暮葉を背負って立ち上がった。


「それじゃ、私はこの子をおじいさんの元に届けてくるよ。鳥見川さん、今日はありがとね」

「いえ、そんな私だって」


 一昨日から抱えていたモヤモヤを忘れることができて助かった。

 そう伝えたかったが、凪がこちらの事情を知る由もないので言葉を飲み込む。


「それと……これからのこと先に謝っておくよ」


 すれ違いざま、微かな声量で耳打ちされた。

 どういう意味だろうか。問いかけようとしたが、もう遅い。

 凪は既にエレベーターに乗り込んでしまった。


「行っちゃいました」


 ポツンと立ち尽くしていると、うららが隣にやって来る。


「なーんか、一気に寂しくなっちゃったね」

「はい……でも、とても楽しかったです」


 先程までの時間が脳裏を駆け巡ると、自然と喜びの言葉があふれ出た。

 それにつられて、唇も緩くなる。


「よかった」

「え?」

「一昨日から氷彗、元気なさそうだったから……って、元はと言えば私のせいなんだけどさ」


 申し訳なさそうに、うららは頬をかいた。

 瞳はキョロキョロと当て所なく泳いでおり、耳元がわずかに赤くなっている。


 そこでようやく、氷彗は気まずさを抱えていたのが自分だけでないことを知った。

 明るく振る舞うように見せて、実はうららも一昨日のことを気にしていたらしい。

 心配をかけてしまったという申し訳なさと、心配してもらえたという嬉しさが混在し、氷彗は目を伏せた。


「招待講演でアリスと会った時だよね? あの挨拶見るの初めてだった?」

「は、はい……カルチャーショックというか。少し驚いてしまって。すみません」

「あはは、こっちこそごめんね。確かに、何も知らずに見たらびっくりしちゃうもんね。でも、安心して! 今からその誤解、解いてみせるから」

「……はい?」


 最後の言葉だけ意味が分からず、氷彗は目をぱちぱちとさせる。

 うららの両手が、おもむろにこちらの両肩を掴んだ。

 いつもより彼女との距離が近い。

 何をされるのか分からないが、直感は大いに警笛を鳴らしていた。


 ༄༄༄


うらら【つまり、チークキスがただの挨拶だって、氷彗に分かってもらえればいいんだ?】

凪  【まぁ、そういうこと】

うらら【じゃあ……】


うらら【氷彗にもチークキスで挨拶すれば誤解も解けるね!!】


凪  【………………】

凪  【どうして君の思考回路はいつもそうなっちゃうかな】


 エレベーターで降りる途中、凪はメッセンジャーアプリを起動した。

 ついさっきやり取りしたトークの内容を見返し、はぁと大きなため息を吐く。


「前言撤回……君、全然成長してないよ」


 研究棟を出たところで、二階から悲鳴のような声が聞こえた。

 どんな経緯で誰が発したのか、凪には容易に想像できた。


「ご愁傷様、鳥見川さん」

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