第26話 ピリリ・綻び・麻婆豆腐(後編)
❄❄❄
「そっか……鳥見川さん、つらかったね」
日曜日に起こったことを話し終えると、凪はそっと氷彗の頭をなでてくれた。まるで、子供をあやすみたいに。
目元はまだ熱い。
涙の乾いた頬はひりひりする。
きっと、今の自分はひどい顔をしているだろう。
語ることがなくなり脳が冷静さを取り戻すと、情けなさと恥ずかしさが同時に押し寄せてきた。
「ごめんなさい。こんな所を見せてしまって」
「ううん、気にしなくていいよ。私も初めてその話題に触れた時は、アイツと言い争いになってかなりへこんだしさ」
ぼろぼろになったこちらとは正反対に、凪は至って冷静だ。
温厚なうららが衝動的に感情を露わにしたという事実を耳にしても驚いていないのは、やはり過去にも似たようなことがあったかららしい。
「新庄さんも?」
「聞きたい?」
「聞かせて、くれるんですか?」
恐る恐る、確かめるように、視線を隣へと持ち上げていく。
垂れた髪の隙間から凪の瞳が見える。
凪いだ湖面を思わせるそれは、過去の方角を向いていた。
「鳥見川さんにならね。今後もうららと一緒にいるなら、下手に地雷を踏み抜かないよう知っておくべきかな、と思って」
言葉の節々に含みを持たせたような話し方だった。
氷彗は緊張してとっさに固唾を飲み込む。
「まずは、どこから話そうか……そういえば、鳥見川さん。夏頃からうららのこと、名前で呼ぶようになったよね?」
「はい。以前は名字で」
「その名字だけど……塔山になったのは、大学入ってからだよ」
「……え?」
「高校の頃まで、うららの名字は“姫路”だったから」
༄༄༄
気付いたのは、高校三年の冬。
この大学の受験帰り。
たまたまアイツの受験票を拾って、見ちゃったんだ。
それまでは私を含めてクラスの誰も、アイツの名字が変わってるなんて知らなかった。
受験に集中してたのもあるからかな。
あの頃は一日中勉強していたし。
でも、近所のネットワークにはもう広まってたみたい。
耳をそばだてなくても聞こえてきたよ。
うららの両親が離婚したとか——
父親が、夜逃げして失踪したとか——
当然、私は耳を疑った。
うららの家には何度も遊びにいっていたけど、そんな予兆、微塵も感じられなかったし。
それにアイツ、分かりやすいマザコン、ファザコンだったから。
水泳部の頃は、よく両親のことを話してたよ。
だから、ずっと気がかりでね。
大学でルームシェアしてた時、酔った勢いでそのことうっかり聞いちゃったのさ。
そしたらアイツ、めちゃくちゃ怒りだして。
そこから言い争いになって、次の日は一日中口をきいてくれなかった。
❄❄❄
「ちょうど、今の鳥見川さんと似た状況だったね」
「新庄さんはその時、どうしたんですか?」
「頭を冷やして謝って、それでおしまい」
「それだけ?」
「うん、それだけ。アイツはそこら辺の切り替え早いから。蒸し返したり、尾を引いて気まずくなることもなかったよ。でもそれ以来、私もその事には一切触れないようになったかな」
「どうしてですか?」
「色々あるけど多分一番の理由は、怖かったんだよ。
息をのむ。
まるで、自分の胸の内を耳にした心地だった。
今が壊れませんようにーー
それは、無欲な氷彗が望む数少ない願いだ。
昔から、今が変わってしまうということが恐ろしかった。
時間、学校、人間関係……
移ろっていくものを、全部つなぎ止めてしまいたかった。
だって、明日は今日より悪くなる。
母親を事故で亡くしてから、その思考はますます強くなっていった。
「踏み込まなければ、少なくとも友達同士ではいられるから」
そこで、凪は一呼吸置く。
ここまでは、ほとんどこちらと思っていることは同じだった。
しかし、次に紡がれた言葉はそのレールから外れた。
「……でも、今になって思うよ。あれが本当に正しい選択肢だったのかなって」
「え?」
「鳥見川さんは、どう思う? うららは本当に母親と決別したいって、そう感じる?」
「……とてもそんな風に見えませんでした」
急に質問され、一瞬頭が真っ白になる。
それでも氷彗の口は無意識に動いた。
しかもその声色は半ば確信を帯びていた。
自分でも不思議だった。
何故だろうと思考を巡らせると、すぐにその理由に行き当たる。
「本当に嫌いな相手なら、あんな寂しそうな顔にならないはずですから」
「私も同意見」
期待した答えが嬉しかったのだろうか。
凪はわずかに目元をゆるませる。
「うららは、良くも悪くも真っ直ぐだから。母親と今の関係になって、自分でも引っ込みがつかなくなっちゃったんだと思う。だから、そこから抜け出すには誰かの手が必要だったんだよ」
せっかく咲いた凪の微笑。
しかし、それはすぐに自嘲へと姿を変えていく。
「それに、私は気づいていたのにさ。ただ、現状維持を優先して……逃げた」
「それは、違います! 新庄さんは、うららさんのことを思って——」
自分でも驚くくらいの声量に、氷彗は戸惑う。
こんなにも必死に擁護するのは、単に凪を思ってのことだけではない。
きっと、自分がその道を選びたがっているからだ。
現状維持の選択を、正しいと信じたいからだ。
しかし、それで本当にいいのか——
「理由はどうあれ、踏み込まないことを選んだのは変わらないよ。でも、鳥見川さんは違う。まだ、君は選んでない」
凪の言葉に、一方の選択を促すようなニュアンスは感じられない。
ただ、まだ選択していないこちらを羨ましがるような、そんな想いが伝わってきた。
もし、時間を巻き戻すことができたら、凪はどちらを選ぶのだろう。
長年押さえつけてきたもう一つの選択肢が、そっと顔を覗かせる。
「私は…………私にできることがあるなら、うららさんの力になりたいです」
思考はいまだまとまらない。
喉を突き動かすのは感情だけだ。
幼稚で非論理的な、破綻の塊。
しかし、そうでなければダメな気がした。
常識と道理に縛られたままでは、きっと一生踏み出せない。
リスクを犯してでもレールから外れなければ、うららを救うことなんて絶対に出来ない。
「お節介だとか、他人の家の都合に首を突っ込むなとか、傲慢だとか、自己満足だとか……そんな正論、分かってます。私は、うららさんの家族と何の関係もない。新庄さんみたいに、昔からの親友でもない。でも……」
それら全部を投げ出したとしても——
「うららさんに、もう、あんな悲しそうな顔になってほしくない!」
舌の先がヒリヒリと痛い。
それはさっき口にした山椒のせいではないのだろう。
胸に巣くっていた想いを吐き出すと、麻酔から解けたようにハッとなった。
「よく頑張ったね」
そう言われ、凪にまた頭を撫でられる。
今度はあやす手つきではなく、ほめたたえる手つきだった。
自分の輪郭をなぞられる度、恥ずかしさが増していく。
とはいえ、嫌な気はしなかった。
「こんなの、私が言えた義理じゃないけどさ」
凪と視線が一直線に交わる。
その両目には、濃縮された感情が渦巻いていた。
「うららのこと、助けてあげて……氷彗」
「はい……凪さん」
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